雨傘運動とは2014年、「真の普通選挙」「一国二制度の堅持」を求める若者たちが路上で大規模デモを展開した民主化運動。香港政府のトップである行政長官の選挙で普通選挙が実施されるはずだったにもかかわらず、中国の習近平政権が民主派の候補者をあらかじめふるい落とす方針を決めた。そこで香港大学の法学者、戴耀廷(ベニー・タイ)副教授らが、非暴力の抗議で世界に訴えようと大人数で金融街の中環(セントラル)占拠を計画。大勢の学生たちが応じ、当時高校生だった黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や周庭(アグネス・チョウ)も中心的存在になって、何万人ものデモへと発展した。鎮圧・逮捕しようと警官らが放つ催涙弾を避けるために雨傘が使われたことから、雨傘運動と呼ばれるようになった。
『乱世備忘 僕らの雨傘運動』は、運動に参加した名もなき若者たちに焦点をあてる。今作が長編デビューとなった陳監督は1987年、香港に生まれた。アヘン戦争で英国の植民地となった香港の中国への返還が決まって3年後だ。彼が2歳の時には天安門事件が起きた。変わりゆく香港とともに育った陳監督と、運動に反対する元公務員の父との葛藤を後景につづりながら、雨傘運動がいかに始まり、いかに収束していったかを足元からつまびらかにしてゆく。
「僕は撮影者でありながら、参加者のひとりでもあった」と、香港バプテスト大学で映画製作を学んだ陳監督は振り返る。「当時の参加者は、物資の供給やバリケード作りなど、それぞれ自分の得意分野を生かして運動に貢献していた。僕の場合は撮影。カメラを回すことで、参加者の若者たちの話を伝えたかった。撮影することで前線まで行くようになり、より大きな責任を感じていった」
黄や周といったリーダー的存在は、今作ではほとんど出てこない。「大きなメディアとは違う角度で現場を映したかった。ごく普通の個人の参加者の現場にいざなうことで、見ている人にも現場を体験してほしいという思いからだ」
「事件」も起きた。陳監督が繁華街の旺角(モンコック)で撮影中、警官に殴られたのだ。
すでに参加者と警官らが衝突し、裏社会の人たちも入り混じって現場は混乱していた。警官が他の参加者を逮捕しようと取り押さえたりし始めたのを見た陳監督は、「ひどい」とカメラを手に近づいた。すると別の警官に「なんで警官を殴った?」と尋問された。陳監督は誰ひとり殴ってなどいなかった。だが座った陳監督を、警官は一発殴った。「初めての経験で、怖くて、最初は彼を撮る勇気もなかった」と陳監督。それでもなんとかカメラを持ち上げて警官に向けると、彼は背を向けてその場を離れた。その様子は今作にも収められている。
陳監督は言う。「力いっぱい殴られたのではなかったし、体の痛みは特になかった。でも内心は怖かったし、とても戸惑った。困った時に助けを求めるはずの警官が、人を助ける立場から人を傷つける立場になった。法的には警官を追及できないかもしれなくても、せめて映画の形で自分の無力を伝えたかった」
映画では、運動に眉をひそめる香港の中高年の人たちの声も映し出している。「全体に、反対している人は年配の方々に多い」と陳監督。「香港の経済が好調だった1970~90年代に大きくなった人たちは今も香港で力があり、安定した経済力もある。彼らには社会が変わるのは許容できないし、民主化もさほど必要がないと思っているのかもしれない。一方、若い人たちは理想をもって、社会の現状を変えたい思いが強い。その点で年配の人たちと根本的に違っていて、衝突が生まれているのだと思う」
今回のドキュメンタリーを、そうした世代をつなぐ「橋」にしたい、と陳監督は願ってもいる。「映画は、生きてきた時代の違う人たちと交流する一つの方法だと思う。反対する人たちに、若者たちがなぜ街に出て運動するのかを伝えたいと考えている」。運動に反対する父とのかかわりを映画に盛り込んだのもその一環。「父は民主化に反対しているわけではない。極端な激しいやり方には反対しているだけだ。でも普段、父との間で政治の話題は禁句になっている。だからこそ、父には映画を通して運動を理解してもらいたいと思った」
だが、あれから4年。黄は禁錮刑を言い渡されて収監された。周は香港立法会(議会)補欠選挙への立候補を認められなかった。今年開通見通しの、香港と中国南部の広東省広州を結ぶ「広深港高速鉄道」は、車両内で中国の法律が適用されることに。林鄭月娥(キャリー・ラム)長官は、若者たちの「中国人」意識を高める教育を打ち出している。「一国二制度」が、その堅持を約束された2047年を待たずに損なわれ始めている。
陳監督は言う。「香港は近年、いろんな面で変わってしまった。これまでの言論の自由や法制度などが日々脅されている。雨傘運動で民主化を勝ちとれずに怖いことが次々と起き、香港人たちは非常に心配している。今の香港はゆううつな低気圧に巻き込まれていると思う。2014年のような情熱はなくなっている」。7月1日の運動に参加する人たちが今年減ったのも、その表れだ。
とはいえ、陳監督はそう悲観的ではない。「社会運動はピークもあれば、低迷もきっとある。それでまた情熱が上がってまた次の運動に向かうということ。だから私は希望を持っている」
香港では今、中国の締めつけを嫌って台湾に移住する人も出ている。返還を控えた1989年6月4日に天安門事件が起きた際には、多くの人たちが逃げるように欧米へ移り住んだ。陳監督の親類にも当時、カナダやオーストラリアに移民をした人がいるという。でも陳監督自身は、「移民を考えたことはない」と語る。「香港で生まれ育った私は香港が好き。ここに残ったからこそ、今回のように映画を撮ることができ、今の私がある。香港にもっとよくなってほしい。外からは意味がないように見えても、楽観的な気持ちで活動を続けるべきだと思う。そうして香港を守っていきたい」。そう、日本でも政府に抗議すると「そんなに日本を嫌いなら出て行け」という言説がネットなどでまかり通るこの頃だが、好きだからこそ「よくしたい」とエネルギーを注ぎ、踏ん張るということだ。
陳監督がそう感じるのも、今作の上映のため足を運んだマレーシアの変化に感じ入ったためでもある。マレーシアでは国民の不満の高まりから、1957年の独立以来初の政権交代が5月に実現した。「1月に現地の人たちと話したら、同じように社会に不満を持ち、心配していた。政府を変えようと思って失敗し、一時は希望を失った。それが思いがけず、選挙で政権交代が実現した。だから、希望を失わないことが大事だと思う」
今作に登場した学生たちのうち、香港大学で英語教育を専攻していた当時23歳のラッキーは、卒業した今は小学校の教師をしている。当時19歳だったレイチェルは香港大学でいまも法律を学び、NGOで活動もしている。
「今の学校は愛国教育を進めているだけに、ラッキーは困難を感じているようだ。それでもひとりの教師として、社会に対して常に批判的に考える力を生徒たちに教えようとしている。いろいろな活動をすることはとても大事で、次の活動に向かって力をためることにもなる。そうすると、思いもよらない変化が起きるはず。それぞれが、自分たちのコミュニティーで活動し続けるしかないんだ」
陳監督にとっての活動は、映画を撮り続けることだという。「例えば1970~80年代の香港の姿を見たければ、当時作られた香港映画を見ればいい。でも今のままだと、将来の香港人は今の香港の姿が映った映画をなかなか見つけられないと思う」と陳監督。中国が経済大国としても、映画市場としても米国に次ぐ世界第2位となり、香港資本だけで作られる映画が激減。中国との「合作」が多くなり、すると中国当局の検閲を経なければならない。「香港人が自分たちのテーマによる自分たちの物語をなかなか映画にしづらくなっている。だからこそ、香港のリアルを記録するドキュメンタリーやインディペンデント映画が、今の香港にとって非常に重要だと思う。僕はこの街を撮り続けたい」
とはいえ、「中国化」が進む香港で、インディペンデント映画を撮るのはますます大変では? 今作も、香港では商業公開はされず、自主上映となった。そう問いかけても、陳監督は楽観的に返した。「でも今は映画自体が作りやすくなっているんですよ。今回もほとんどすべて僕が完成させた。香港にはそれでもまだ言論の自由があると感じているし、映画を街角で上映することだってできる。資金集めは大変だけど、香港がダメでも台湾とか、いろんな可能性を探って困難を乗り越えたい」
最近、中国の広東省東莞市で次回作の撮影をしたという。かつて暴動に参加した人を取り上げたドキュメンタリーだ。中国本土での撮影に、何も問題はなかったのだろうか。「心配していたけど、順調に進んだ。何かに違反しているわけではないし、影響はないと思う」
今回のインタビューで陳監督は、香港で長年話されてきた広東語ではなく、北京で使われている「普通話」を流暢に話した。かつて香港の人が得意とした英語はほとんど話す機会がなくなっているという。陳監督は言う。「上の世代の人たちの多くは普通話をうまく話せないけど、僕たちの世代は小中学校では普通話の授業があって、小さい頃から触れてきた。何より、中国本土からたくさんの人々が香港に来ているから、使う機会がどんどん増えている。大学で映画製作を学んでいた頃も、クラスメート約30人のうち20数人が本土の人たちだったしね」
長年の香港フリークの私としても、普通話の普及ぶりと、英語が通じなくなっている現状は実感している。2年余り前に出張した際、香港に住む友人の米国人記者と食事したが、いわゆる欧米人が多い店だったにもかかわらず、米国人の彼がウェイトレスさんに手を替え品を替え英語で話しかけても通じず、普通話を投げかけたら伝わったという一幕もあった。英語はしょせん旧宗主国の言葉、それが通じなくなるのは返還後の当然の流れと言えるが、一方で言語の「中国化」も進んでいるということだ。
それにしても、本土からの学生たちが香港で一定期間学び、暮らすことで、民主化を求める学生たちに影響されたりしないのだろうか。そう言うと、陳監督は「大学時代、僕は彼らを『六四燭光晩会』に連れて行ったことがある」と答えた。「六四燭光晩会」とは、ろうそくを手に天安門事件の犠牲者を追悼するビクトリア公園での毎年恒例の集会だ。「聞いた話だけど、彼らの中には香港に残って卒業製作の映画を撮る人もいたそうだ。香港にいると、いろいろな活動に参加する機会がある。そうしたことに彼らも影響されているんじゃないかと僕は思う」
陳監督が希望を持ち続けるのは、そんな経験もあるのだろう。若い世代の交流が将来にどんな影響をもたらすのか。好きな香港に通い続けるひとりとして、陳監督のように希望を捨てずにいたいと思う。