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日本から中米へ つながる「お母ちゃん」たちの生活改善

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「何とか農村を民主化したかった」

当時は男性に「こうやった方がいいと思うけど」といっても、「女はだまってりゃいいのよ」と言われる時代でした。隣組のお葬式に手伝いに行っても、「いろいろうちのこと言うんじゃねえぞ、だまってりゃいいんだ」と言われたりしました。洗濯だって、男性が寝とる間に家族中のものを洗う。女性がいかに働いていたかということです。


私は小さいときから田んぼで育ちましたが、大きな農家から嫁いだ私の母が、しゅうとめにいろいろ言われて、隠れて泣いている姿を見ました。「お母さんなんで泣くの」ってすがると、母は「いいの、いいの」って理由を言ってくれませんでした。私は本当は体育の先生になりたかったんですけど、父に東京の大学には出せん、と言われて、就職するときは生活改良普及員になって農村を何とか民主化しよう、と思いました。

――生活改善が民主化にもつながるのですか。

生活改善は米国による占領下の1948年、農村の民主化をしないといけない、として始まった政策でした。米国のモデルを持ってきて、沖縄から北海道まで普及員が配置されました。米国より日本の方がすごく成果が上がったといいますね。

私が普及員になった1959年は高度経済成長が始まったころで、「私の集落に来て」と普及員を取り合う状態でした。7人から20人くらいまでの生活改善グループが、雨後のタケノコのようにできて、夜といい昼といい、みんなで話し合いました。

「お母ちゃんたちの顔つきが本当に変わってきた」

――生活はどう変わったのですか。

囲炉裏で暮らしていたときには、そこらじゅうが煙だらけでした。目が痛くなって、冬になると目の伝染病トラコーマになる。かまどにしたら、全然煙が出なくなった。それで馬鹿にしていた男衆が「女衆はたいしたもんだ」ということになりました。「私たちは物言わない牛から、いよいよ物が言える人間になれた」と言ったグループ員もいたんですよ。

じゃあ今度は窓や流しをつくろう、となって、資金をどうしようかとなったときに、豚を飼ったり、ネギの苗を売ったり、共同桑畑の草刈りをしたりして、お金をためては改善しました。女性たちが自分で考えて、行動してお金を得て、それが生活をよくする力になっていった。かまどの改善がものすごい大きな力を発揮してたんです。それが生活改善の本当の原点ですね。「まだやれるんだ」「こんなに暮らしがよくなるとは思わなかった」と、お母ちゃんたちの顔つきが本当に変わってきました。他の人たちに教えたりして意欲と自主性が育っていくんですね。

エルサルやドミニカに伝える経験

高度経済成長が終わって1980年代になると、モノは豊かになったので、生活改善は必要ないといわれました。でも人づくりの事業ですから、どんな社会になっても主体的、自主的に生活をよくしていく姿勢は必要じゃないか、と散々苦労して、みんなで必死に活動しました。一生懸命やってきたことが必ず振り返られる時がある、と思い、「みどりのむらに輝きを」と題した分厚い記録集を作りました。自分たちが活動した事例を出したり、当時のグループ員から寄稿していただいたりしたことが今、とても生きています。途上国の方が毎年、松川町に研修に来ますし、私もエルサルバドルやコスタリカ、ドミニカに生活改善活動の支援に行きました。

「みどりのむらに輝きを」と題した記録集

エルサルでは栄養改善で、動物性たんぱく質や野菜をたくさんとりましょう、と庭にビニールを敷いてつくった池で魚を育てたり、ニワトリを飼って卵を食べるように工夫したりしていました。家庭菜園を見せていただくと、素晴らしい野菜ができていました。

コスタリカは甘い物が好きなのでしょうか、肥満防止、健康づくりを課題にしていました。体操を教えたり、家庭菜園をつくったりして、健康診断を受診する人も増えました。家をきれいにする人が増えたことで、ジカ熱や風土病が減ったんですって。でも、野菜が収穫直前に盗まれてしまうので、つくる気がしないという人もいました。ドミニカには貯蓄グループがあって、倹約して貯金箱にお金をためていました。子どもが不良にならないよう、きちんとした暮らしをするためだと聞きました。

コスタリカやエルサルは、生活改善をするまでは、お隣同士だれが住んでいるか知らなかった、とも聞きました。内戦などの歴史的な経緯もあって、自分のことは知らせない、向こうのことにも深入りしない。だからグループ化するのは至難の業と思いました。

日本から学んだ生活改善の活動に取り組むエルサルバドルの人たち=中部サンハシント村

――現代の途上国と戦後日本の農村に共通点はあるのでしょうか。

本当に似ています。戦後の生活の写真をいくつかパソコンに入れて持って行きますと、「ああ、私たちと同じだったんだ。私たちだってやればできる、と勇気を与えていただいた」と言われます。

一方で、途上国では今、どこでもみんなスマホを持っている。「普及員さんが来たけど、あなたは来ないの?」「次の会議はいつするから」って連絡を取るんです。新と旧が交じっています。ですから、生活改善の活動成果も日本より早いのではないでしょうか。

中米の方が食料事情は強い、とも思いました。四季がある日本では、コメが一年一作しか収穫されません。だから、カボチャやイモ、大根といった代用食を食べないといけなかった。ところが、あちらは熱帯性気候でバナナはあるし、いろんな野菜もすぐ育ちます。

生活改善に取り組む夫婦の台所=エルサルバドル東部ラセイバ

ただ、住宅環境があまりにも悪い。現地の人に「一番困ることは何ですか」と聞いたら、「子どもを雨期の雨から守ってやれないことだ」と言うんです。屋根がバナナの葉っぱのようなものでふいてあるので、バケツで水をかけたようなスコールが来ると、家じゅうに水が回ってしまう。壁に穴が開いていて、手入れもできない。日本は家が寒いことは寒いけれど、雨で病気になることなどは、ほとんどありませんから。

――途上国の生活改善が実を結ぶには何がポイントですか。

一番大事なのは、グループ活動にエンジンがかかるところだと思っているんです。補助金がもらえるのではないかと思って勉強しているのではなくて、自発的に自分たちの活動が展開できるようになれば、あとは活動が幅広くできていくのではないかと思います。教えてもらう段階から、自分たちが学んでいこうという段階になっていくところがとても重要です。

いつも思い出すんです。今、コスタリカのみなさん、エルサルのあのお母ちゃんたちどうしているかなって。本当に思いは尽きません。一生懸命取り組んで頂ける姿勢がとてもうれしいと思っています。成果としてどのあたりまでいけるか、期待と不安が入り交じっています。

生活改善普及事業と国際協力

戦後、農村の民主化を目指した連合国軍総司令部(GHQ)の指示で1948年、当時の農林省(現農林水産省)が米国の取り組みをモデルに農業改良助長法に基づく制度をつくり、翌年から活動が始まった。農水省によると、ピークの68年には「生改さん」と呼ばれる普及員が2210人に達し、全国で農家の主婦らにサークル活動を指導した。2001年に農業改良普及員に統合されて呼称はなくなったが、農産加工などの業務に受け継がれているという。

戦後日本の経験を学びたいという途上国の要望を受けて、JICAが05年から中南米14カ国から330人以上を受け入れて研修した。エルサルでは、政府の社会開発投資基金が15年に試験事業を始め、21市で約3千世帯が参加した。