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私の父親はだれなのか ルーツを知ろうともがく人たち

World Now

米西部ユタ州のソルトレークシティーに住む建築家のビル・コードレー(68)が提供精子で生まれたと知ったのは、37歳のときだ。父親と弟の死をきっかけに、母から知らされた。

やっぱりそうか、と思った。父は体を動かすのが得意なのに、自分は本や芸術を好むことに、子どものころから違和感があった。見た目も似ていない。「長年だまされていた、と怒りがわいた」

遺伝上の父親はだれなのか。ルーツ探しが始まった。母の主治医は「提供者は1945年卒業組のユタ大学の医学生」とだけ母に伝えていた。卒業生名簿を手に入れ、31人が「候補」になった。地元紙の医療記事や専門誌を調べて顔写真をそろえた。しかし、決定打はない。

ある本に「精子提供者は母親の主治医が多い」とあった。その医師は31人の「候補」には入っていないが、自宅を訪ね、思い切って切り出した。「あなたのおかげで私がいる。ありがとう」。80歳近い相手は、父だとは認めなかった。

父親を特定したのはごく最近だ。2012年秋、DNAで遺伝的なつながりを調べるサイトに唾液を送った。費用は100ドル(約1万円)ほどで済む。

その検査で、アイダホ州に住む男性と、遺伝的つながりがあることが分かった。彼は家系の詳しい報告を送ってくれた。ソンドレという名のノルウェーからの移民が、共通の曽祖父のようだった。

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遺伝上の父やきょうだいを見つけたビル・コードレー /photo:Ebuchi Takeshi

ソンドレは1850年、モルモン教徒に嫁いだ姉を頼ってユタ州に移住した。ソンドレには13人の子がいた。孫は50人以上いるだろう。ビルの父はだれなのか。家系報告の後ろに、ソンドレの英語名が小さく載っていた。自分が訪ねた母の主治医の名字だった。モルモン教徒の家系を調べるサイトで確認すると、医師はソンドレの孫だった。

ビルはこの半年ほどで、同じドナーから生まれた異母きょうだい6人、いとこ2人、おい・めい3人を見つけた。きょうだいの一人、アン(59)は水色の澄んだ目や、淡い栗色の髪がビルそっくりだ。アンはDNAサイトをのぞくのが日課だ。「2週間に1人、新たなきょうだいや親族がみつかる。その現実をどう受け止めていいのか、まだ分からない」

1人の精子ドナーから200人

米国では毎年約3万人、累計100万人以上が提供精子で生まれたと言われる。経済的に余裕のある白人家庭が多い。1980年代には精子バンクが普及。バンクは、匿名のドナーでも番号は開示している。バンクの精子で生まれた子どもはドナー番号を使ってつながりはじめた。

よく使われるのが「ドナーきょうだい登録(DSR)」というサイトだ。親や本人がドナー番号などを登録すれば、同じドナーから生まれた人が分かる。

DSRをつくったウェンディー・クレーマー(55)を、米西部コロラド州の山あいに訪ねた。自身も大手精子バンクから精子を買い、90年に長男ライアンを産んだ。ライアンは成長するにつれ遺伝上の父への関心が強まる。誕生日の願いごとはいつも「父さんに会いたい」。

2000年、10歳のライアンは、学校から帰る車の中で母に提案した。「ネットの掲示板できょうだいを募りたい」

最初の投稿は「ドナー番号1058を探しています」。それから7年、三つ下の妹がみつかった。ニューヨーク・セントラルパークで待ち合わせすると、妹と一目で分かった。ほかに2人の姉妹をみつけ、いまは4人きょうだいだ。年1回は集まる。

父も分かった。DNA検査を受けたら、そのDNAサイトに登録する2人と遺伝的なつながりがあった。2人はほぼ同じ名字だった。一方、ライアンは精子バンクから生年月日などの情報を得て、住所のあるロサンゼルスでその日に生まれた人を一覧表にしていた。その中に、名字が合う人がひとりだけいた。

父に会いに行くと、理知的な語り口のエンジニアだった。ライアンも数学が得意で、14歳で大学に入り航空宇宙工学を学んでいた。ライアンは「ユーモアのセンスまで似ていた」と感じた。

帰りの機内でライアンが話した言葉をウェンディーは忘れない。「もし二度と父と会わなくても、僕は大丈夫。自分の半分がどこから来たか、分かったから」

DSRには世界中から4万3000人以上が登録し、1万1000組の親子やきょうだいがつながった。1人の精子ドナーから約200人が生まれていたケースも。多すぎると子孫が近親婚してしまうリスクが大きくなる。1人から100人以上生まれていた例が、10以上あった。

(江渕崇)
(文中敬称略)

学生名簿が手がかり

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日本にも自分のルーツを探し続ける人がいる。横浜市の医師、加藤英明(40)は医学部の実習で血液検査を受け、父と血がつながっていないことを知った。「自分の半分が持って行かれて、荒野に放り出されたように感じた」

母は慶応大病院で人工授精を受け、ドナーは医学部の学生だという。当時の3~6年生計約400人の名簿を集めた。医学誌などから顔写真も一つひとつ手に入れた。10人ほどに直接会ったが、だれも精子提供は認めなかった。

加藤は今春、慶大病院側に提供者を開示するよう求めたが、「記録は残っていない」と断られた。

日本で初めて、提供精子による人工授精で子どもが生まれたのは1949年。この60年、推計で1万人以上が生まれた。

石塚幸子(35)もその一人。23歳のとき、父の遺伝病をきっかけに母から事実を知らされた。石塚は加藤らと、同じ境遇の人たちでグループを作ったが、まだ10人ほどとしか接触できていない。石塚は「多くの人は事実を知らされていないのだろう」。

出自を知る権利を認めると、ドナーが減って不妊夫婦の不利益になる、との心配が医療界に根強い。しかし、子どもの福祉に詳しい元帝塚山大教授の才村眞理は「知る権利を優先すべきだ。当事者が直面する悩みは生死に関わるほど重く、見て見ぬふりをするのは社会的な虐待に近い」と言う。

(江渕崇)
(文中敬称略)



「出自知る権利」各国で違い

生殖医療で生まれた子どもの「出自を知る権利」について、英国と北欧のいくつかの国は例外的に認めている。スウェーデンは1984年に制定された「人工授精法」で、第三者の提供精子で生まれた子どもが、18歳に達した時点で、提供者に関する公的記録を見ることができるようにした。精子提供者には匿名が認められず、その記録は、治療を行った病院で保存される。

英国でも、2005年4月に改正された「ヒト受精及び胚研究法」により、匿名での精子提供は認められなくなった。

いずれの国でも、匿名が認められなくなったことで提供者の数は激減。未婚の学生や兵士が中心だった提供者も、より年齢が高く、子どもがいる男性が中心になったという。

では、子どもたちの「出自を知る権利」は実際に行使されているのか。埼玉医科大教授の石原理(おさむ)によると、スウェーデンで人工授精法の施行後に生まれた子どもが18歳に達した2003年以降、精子提供者の記録の閲覧を求める人は、数人にとどまっているという。

石原は「事実を親が子どもに伝えていない可能性もあるが、むしろきちんと伝えているがゆえに、子どもはあえて生物学上の親を探す必要性を感じていないのではないか」とみている。

(後藤絵里)
(文中敬称略)

「パンドラの箱は開いた」/高村薫

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photo:Sako Kazuyoshi

生殖医療は「希望の医療」であると同時に、「欲望の医療」でもある。欲望は人間が求める自由そのものだ。その進歩は誰にも止められない。

現代社会では、共同体がかつてのような規範や重しとはならず、個々の欲望を抑えるメカニズムが働きにくくなっている。倫理も時代とともに変化するので、生殖医療を規制する主体にはなりえない。

36年前にルイーズ・ブラウンが誕生した時に、パンドラの箱は開いたのだ。 日本で認められない代理母が、米国では認められているとなれば、何としてもそれを試したいと思う人はいる。日本でも、卵子の老化を心配する独身女性が将来に備えて、卵子を凍結保存しておくサービスが出てきた。この背景には、結婚はしたくないが子どもは欲しいと考える女性たちがいる。同じ時代や社会に生きる私たちが、何をどこまで許容するかを個別に選択し、ルールを作るほかない。

一方で、その進歩は家族、とりわけ親子の姿を変えていく。遺伝上の親、生みの親、育ての親がみな違うということが起こりうるわけで、生まれた子にとって「父親」「母親」は一人ではなくなる。親に対する思いも変質するだろうし、親子関係は非常にドライになるだろう。

それが一概に悪いとも言えない。親子関係が濃すぎて、親の介護で子どもが一生を棒に振ったり、将来を悲観した親が子どもを道連れにしたりという、儒教的家族観の負の側面も私たちは見てきた。

家族や社会の姿は時代とともに変わる。つい100年前まで、農村などでは子どもは労働力だった。50年後には、生まれる前の遺伝子の選別が当たり前になり、遺伝子異常による障害児はいなくなるかもしれない。一方で、遺伝子操作によって背の高い子ばかり生まれたり、黒髪で黒い目の親から金髪碧眼の子どもが生まれたりするかもしれない。

生殖医療の発展が科学の進歩に寄与した面もある。ただ、それが人類にとっての福音かどうか、全体の「収支」を出すのは難しい。その収支は個々で違う。100%幸せな人もいれば、家族関係が難しくなり、過去の選択が良かったのか悩む人もいるだろう。

生殖医療によって、複雑な環境を背負って生まれてくる子どもたちもいる。実の親でも、子どもは反抗期などに「自分は両親の子ではないのでは」などと考えるものだ。生殖医療で親子関係が複雑化した子どもの悩みの深さは一般的な思春期のそれとは比べものにならない。家族関係が変質して、新しい価値観が生まれ、社会は対処できず何らかの対価を払わなければならなくなるかもしれない。

社会が慎重に見守るべき先はビジネスだ。それが技術と結びつくと一線を越える可能性は高まる。若い女性の卵子保存も費用は数十万円。お金がある人と貧しい人の差が、子どもを産むという最も基本的な営みに顕著に表れてくる。

生殖医療、遺伝子技術に再生医療の成果が加われば、もはや人間にできないことはないという時代が来るのか。人間は生物として超えてはならない限界を超えようとしているのかもしれない。

(聞き手・後藤絵里)

「不妊夫婦へ選択肢は多く」/石原理

石原理・埼玉医科大教授、日本生殖医学会常任理事に聞く

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photo:Goto eri

不妊症が病気として認められるようになったのは、実はごく最近のことだ。病気を分類する国際的な基準の原案は1980年代に作られたが、この中には不妊症関連の病気は一つも載っていない。日本でも「授かる」という言葉が使われるように、個人の希望は必ずしもかなえられるものではないということを、誰もが暗黙の内に了解していた。

そこに体外受精という「革命」が起きた。この治療による妊娠率はいまでも3割程度にとどまるが、子どもを持つことが難しかった人たちに大きな希望を与えた。

1978年、世界初の体外受精児が生まれた英国でも、長い間、不妊は多くの人にとって容易に語れないスティグマ(負の印)だった。やがて、不妊は治療できる病気だという認識が広がり、90年には生殖医療を規制する「ヒト受精及び胚研究法」が成立したことで、社会の拒否感も薄れていった。サッカー選手や国会議員ら、不妊治療で子どもを授かったと公表する有名人が出てきたことも影響したようだ。

残念ながら、日本ではまだ「不妊」は気軽に話題にできるものではない。日本では、晩婚・晩産化の影響で、生殖医療を受ける患者の高齢化も進んでいる。80年代末に私が不妊症の診療をしていた頃、患者の平均年齢は30代前半だった。今は40歳。妊娠しやすい時期に夫婦生活をもつタイミング療法から人工授精、体外受精へと段階を踏む時間がなく、いきなり体外受精から始めるケースも多い。卵子の老化には解決法がないという「不都合な真実」に、医師も患者も向き合わざるをえない局面にきている。

生殖医療に関する法律がある英国や北欧と、日本とで生殖医療の技術水準に大差はない。大きな違いは、それらの国では生殖医療と並んで養子縁組など家族づくりのための他の手段が広く社会に受け入れられていることだ。治療を受けられる年齢や回数も制限されている。今の日本では多くの患者に「不妊治療を続ける」か「子どもをあきらめる」の二者択一しかなく、次第に「妊娠」が目的化してしまう。生殖医療が結果的に血縁幻想を強化する装置になってきた面は否定できない。不妊治療に携わる医師はそれを感じながら、目の前の患者の「子どもが欲しい」という切実な望みをかなえるため、自分にできることをまず考える。

どんな科学技術も限界がある。医師は夢を持てるという事実と同時に、全員がその夢を実現できるわけではないことも説明しなければならない。患者もその限界を理解し、知っておくことが大切だ。不妊治療はあくまでも家族づくりの一手段であり、養子や里子を迎えるという別の手段があることも忘れないでほしい。卵子提供などの新たな手段を含め、選択肢は多いほうが、患者は自分の願いを相対化できる。最終的に夫婦2人の生活を選ぶにしても、自ら選んだ結果は受け入れやすい。複数の選択肢の中から患者が納得のいく方法を選べることが大事だと思う。

(聞き手・後藤絵里)



取材にあたった記者

竹石涼子(たけいし・りょうこ)
1971年生まれ。科学医療部などを経て世論調査部。技術をどこまで使うか。個人、社会そして子どもを含む家族の問題でもあると思った。

行方史郎(なめかた・しろう)
1966年生まれ。アメリカ総局などを経て4月から科学医療部。米国でデザイナーベビーをめぐる最前線を取材、メディアの関心の高さを痛感した。

江渕崇(えぶち・たかし)
1976年生まれ。経済部などを経て、4月からGLOBE記者。一貫して「氏より育ち」論者だが、今回の取材で「血は水よりも濃い」説も少し理解した。

後藤絵里(ごとう・えり)
1969年生まれ。経済部などを経てGLOBE記者。生殖医療技術の進歩が、女性の生き方に与えた影響は計り知れないと感じた。