男性の科学者たちは睾丸(こうがん)の中身について、長い間、詩的に表現してきた。「精子は一滴の脳である」。そう記述したのは、古代ギリシャの著述家ディオゲネス・ラエルティウスだ。レオナルド・ダビンチは、脊髄(せきずい)直結の精子官がついたペニスを描いた。17世紀の顕微鏡学者アントニ・ファン・レーウェンフックは、一つひとつの精子細胞の中で、それぞれ折りたたまれた人間が広げられるのを辛抱強く待っていると説いた。
これと同じくらい長きにわたり、科学者たちは、精子の衰えが避け難いことを案じてきた。最近だと、一連の憂慮すべき記事の大見出しや、ニューヨークのマウントサイナイ病院の公衆衛生学者による新著は、精子の数の減少が人類の未来を脅かすかもしれないと警告している。「これは地球規模の実存的危機である」と、その本「Count Down(カウントダウン)」の著者シャナ・H・スワンは指摘する。
一連の大見出しのほとんどは、スワンらによる有力な2017年のメタ分析(訳注=複数の研究結果を統合した高い見地からの分析や、その分析手法)に由来している。欧州や北米、オーストラリア、ニュージーランドで精子の数が1973年以来、60%近く急減したことを突きとめたメタ分析。研究論文の筆者たちは世界中から集めた7500件の精子の数についての研究をふるいにかけ、最終的に男性4万3千人に関する185件の研究について分析した。
研究者たちはこの減少を、世界中の男性のリプロダクティブヘルス(性と生殖に関する健康)の衰えに対する「炭鉱のカナリア(警告)」と呼んだ。今日なら、研究論文の筆者たちは表現を訂正するだろう。「いまや、それは明確に実存する懸念になった」とハガイ・レビンは指摘する。(訳注=イスラエルの)ヘブライ大学ハダサー公衆衛生大学院の博士で公衆衛生学者のレビンは、2017年メタ分析の共同筆者の一人だ。スワンも同じ意見で、「カナリアはいま難渋している」とスワンは言う。
これに対し、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学の学際研究者グループはいま、迫りくるSpermageddon(訳注=精子を意味する「スペルマ」と終末の世界最終戦争を意味する「アルマゲドン」を結合した造語)の恐怖があまりにも誇張されてきたと強調している。学術誌「Human Fertility(ヒトの生殖)」に5月発表した研究論文で、彼らは2017年メタ分析を再検討し、それが欠陥のある仮説に依拠しており、精子数の明らかな減少に関する他の学説に注意を払ってこなかったことに注目した。
ハーバード大学の学者(専門はジェンダーと科学)で今回の新研究の上席筆者サラ・リチャードソンは、2017年メタ分析の結論について、「驚くべき恐ろしい主張であり、それが真実だとすれば、論文の終末論的な論調を正当化することになる」と指摘。幸いなことに、彼女と共同執筆者たちは、それが事実だとする証拠はほとんどないと論じている。
リチャードソンらの指摘によると、2017年メタ分析の執筆者は、精子の数量研究の質と一貫性を精査するに際し「方法論的には厳密」だった。ところが、精査に通ったデータでさえも地理的なバラつきがあり、男性の年齢など基本的な精査基準を欠いていたことがかなりあった。しかも、執筆者たちは、単一の測定基準――つまり精子の数――が男性の生殖能力と健康全般の正確な予測因子であることを当然のこととみなしていた。
「最適」な精子の数はいくつなのか、誰にもわかっていない。世界保健機関(WHO)は、「正常」な精子数の範囲を1ミリリットル当たり1500万個から2億5千万個としている(男性は1回の射精で2~5ミリリットルの精液を分泌する)。だが、それが多いほど良いのかどうかははっきりしていない。一定の基準値――WHOによると、1ミリリットル当たり4千万個――を超えると、数が多いほど男性の生殖能力が高いわけではないのだ。
「精子の数が2500万個から5千万個に倍増しても、(生殖の)チャンスは2倍にはならない」。英シェフィールド大学の男性学者で、「Human Fertility」誌の編集長アラン・ペイシーは指摘し、「1億個から2億個に増えても、チャンスは倍増しないし、実際のところ(チャンスは)横ばいだ」と言っている。
精子の数のカウントには、他にも測定基準としての限界がある。精巣の幹細胞が新たな精子になるには約2カ月かかる。つまり、どの数も変化の過程の一部を切り取ったにすぎないのだ。
「ある月に人の体内で起きたことは、翌月に起きることとまったく異なる可能性があり、その影響で精子の数が変化するかもしれない」とメレディス・ライヒスは言う。2021年の研究論文の筆者の一人で、ボストンにあるMITの生物人類学者だ
不妊の謎解きの重要なピースも見落とされている。そのピースとは女性のことだ。男性側にのみ焦点を置くと、精子と女性の生殖器官、そして卵子との重要な相互作用という視点が抜け落ちてしまう。「実際、カップルに注目することがとても大切である」とワシントン大学医学部の不妊治療専門医ブラッドリー・D・アナワルトは指摘する。
先述のスワンは自著で、精子の数の急減は内分泌攪乱(かくらん)物質の増加が主な原因と示唆している。内分泌攪乱物質とは、シャンプーからテレビディナー(訳注=電子レンジで温めるだけで食べられるワンプレートの冷凍食品)まで、あらゆるものに見られるホルモン模倣化学物質の一種だ(スワンは、肥満や飲酒、喫煙といったライフスタイルの要因にも言及している)。
リチャードソンら共同執筆者は、別の説明を提案している。おそらく、精子の数は(カウントする)時期や集団によって自然に上下する。この点については、生殖研究者は調査してこなかったし、1970年以前における地球規模の精子数がほとんど知られていないため、そう簡単には答えが出ない。
他にも考えられる説明はある。ペイシーによると、精子のカウントは一筋縄ではいかない作業で、人為的なミスが発生しやすいことがよく知られている(ペイシーは、「精子のカウントに30年をかけ、それがいかに難しいかを知る者の視点から指摘している」と言い添えた)。
あらゆる不妊のうち、少なくとも半数は男性側に不妊の原因がある。しかし、歴史的にみると、その責任はほとんどが女性に押し付けられてきた。そして、体外受精といった生殖技術の発達で、女性の体は生殖医学によって綿密に診察され追跡される対象になった。
その結果として、科学は精子については、今なお基本的な知見を欠いている――。医療社会学者で、「GUYnecology: The Missing Science of Men's Reproductive Health(男性不妊――男性の性と生殖に関する健康が欠落した科学)」の著者レネ・アルメリングの指摘だ。
「私たちは女性の体の出産と生殖能力にまつわる医療インフラを築き上げてきたが、男性の性と生殖に関する健康についてはいくつかの基本的な疑問にこたえてこなかった」とアルメリングは言う。「だから、精子については、行われるべき基礎研究がまだ山積みだ」
不妊治療の専門医がいまでも注目している精子の主な性質は、その数、形状、運動率だが、過去40年間、それは変わっていないとエイブラハム・モーゲンティラーは言っている。泌尿器科医で、「Men's Health Boston」(訳注=米マサチューセッツ州にある男性専門の泌尿器科医院)の創設者だ。
モーゲンティラーは、この停滞はIVF(体外受精)その他の生殖技術の発達に起因すると考えている。そうした生殖技術が、ほとんどすべて男性側の不妊要因の治療の最前線を担ってきた。「精子の何が悪いのかすら、問題にされていない」と彼は言っている。(抄訳)
(Rachel E. Gross)©2021 The New York Times
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