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若き天才候補はこうして生まれた 子育てで母が息子に伝えたことは

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コペンハーゲンでの姫岡優介 Photo: Ota Hiroyuki

あらゆる生命に共通する法則を求めて

姫岡優介(27)。

姫岡の研究対象は「生物」だ。だが、5月に彼の研究室を訪ねると、そこには試験管も実験動物も見当たらず、姫岡自身はノート代わりのタブレットで、数式と格闘していた。「僕が専攻する『普遍生物学』は、生まれたばかりで大きな可能性が広がる『ブルーオーシャン』。やりたいことが山ほどある」

現代の主流である分子生物学は、再生医療など大きな成果を上げてきた。しかし、生物の中で起きる化学反応は極めて複雑で、調べてもきりがない。「生命の謎が分かった!」という実感を得るには、複雑さの背後に存在する「生命現象の法則」を、物理学や数学を駆使して追う方が有効ではないか。

普遍生物学は、そんな問題意識から生まれた。姫岡の恩師、東京大学大学院教授の金子邦彦(61)によれば、目標は「地球外生命にも当てはまるほどの普遍性を持つ、生命理論の構築」だ。

「天才」アインシュタインやボーアの出発点は「世界の謎を解く」という純粋な探求心だった。その成果は、私たちの宇宙観を変え、情報技術(IT)の発展につながった。姫岡が普遍生物学に取り組むのも、「自分とは何か」「生きるとはどういうことか」という切実な問いの答えを探すためだ。

 子どもの「なぜ?」に必ず耳を傾けた母

 3月、コペンハーゲン行きの飛行機が出発する直前、姫岡は母親の中原浩子(56)にラインでメッセージを送った。「あなたの子どもで幸せでした」。幼い頃から彼の小さな問いかけを受け止め、守り育ててくれたからだ。

姫岡優介が1歳の頃、最初に覚えた言葉の一つが「アッカ(赤)」だった。「アッカ、アッカ」と言いながら、庭に落ちた南天の実をずっと探し続けていた=中原浩子提供

浩子は姫岡について「砂場でいつまでも砂をいじり、自分の手をじっと見ている子どもでした」と振り返る。

「なぜ?」という問いかけがあると、浩子は必ず家事の手を休めて耳を傾けた。「後でね」と言った瞬間、子どもの「知りたい」という好奇心を殺してしまうと考えたからだ。2歳の姫岡に「雪ってなぜ降るの」と問われれば、「空気中の水分が、高い所で冷やされて、氷になり落ちてくるから」ときちんと教えた。

理屈っぽく、大人びた子に育った姫岡は、周囲の子どもから浮いていた。小学校ではいじめにあった。「なんで生きているんだろう」。幼心にそう思い詰めた。

浩子も「自分の子育てが原因かも」と思い悩んだが、「20歳になった時に自分の人生を自分で切り開くような人間に育てるのが私の仕事だ」と考え、教育方針は変えなかった。

姫岡の母、中原浩子=山形県酒田市で Photo: Ota Hiroyuki

有名私立中への進学も考えたが、最終的に選んだのは、千葉県木更津市の私立中高一貫校「暁星国際学園・ヨハネ研究の森コース(研究の森)」だった。

山中にある全寮制学校は、6学年合わせて生徒数50100人程度。教科書は使わず、討論形式の授業で「進化論」「地球温暖化」などの大テーマを1年がかりで探求する。生徒たちは分厚い専門書を読み、一般の教科学習は生徒の自学自習にゆだねる。通常の学校教育から見ればかなり型破りだったが、浩子は「ここなら、優介が心ゆくまで疑問を持ち、考えを深められる」と感じた。

「ヨハネ研究の森」代表の横瀬と共に、討論形式の授業をする女子生徒たち Photo: Ota Hiroyuki

「学ぶことは生きること」

「研究の森」代表の言語学者・横瀬和治(72)は「疑問を持つこと、答えを探すことは、生きることの一部」と話す。「勉強なんてへどが出る」と言う人さえ、「なぜ、こんなことをやらねばならないのか」「どうすれば幸せになれるのか」という真摯(しんし)な問いが根っこにある。「学び」とは本来、そんな自発的問いに支えられた行為だ。

「ヨハネ研究の森」代表、横瀬和治 Photo: Ota Hiroyuki

一方、学校教育は「将来のため」と称して「今、生きること」とは何の関係もない知識を伝えようとする。それは学びとは対極の「苦行」だ。自発的に学べる環境を作るには、そこから離れる必要がある――。そんな横瀬の考えを具現化したのが「研究の森」だった。

姫岡自身、当初から自発的に学ぼうとしたわけではない。ある日、批評家・吉本隆明の「共同幻想論」に触れ、世界が変わった。自分がいじめられたのも、いじめる側が「友達集団」という共同幻想を維持するために、誰かを仲間はずれにする必要があったからではないか――。そう思い至ると、心が軽くなった。「学問はすごいな。やりたいな」。そんな思いが自然にわいてきた。

自ら本を読み、討論にも積極的に参加するようになった。小学生の頃、教室の隅っこにいた姫岡は、「研究の森」ではリーダーへと成長していった。

姫岡は言う。「『研究の森』では『未知の領域、分野をどうやって自分の中に落とし込むか』という根本的なスキルを身につけられた。どこに行っても大丈夫、という自信ができた」

 疑問や欲求に正直に生きる

 浩子は姫岡が「研究の森」に入学した後、教育方針の違いなどで夫と離婚。専業主婦から教育者への道を歩み始めた。学習塾を千葉市で開き、独自の教育姿勢が評判になった。その後、映画「おくりびと」に感銘を受け、山形県庄内地方に移住。東北公益文科大学の特任講師を経て今春、周囲に請われて私立酒田南高等学校校長に就任した。

浩子は自らの教育方針をこう話す。「幸福とは、自分の人生が自分の手中にあると感じられること。社会の無責任な価値観である『空気』に支配されてしまうと、自分を見失う。オンリーワンである自分のDNAの声に従う勇気を持って欲しい」

姫岡はAO入試で東北大学生物学科に入った後、物理学科に転科。「物理学で生物の謎を解く」と説く金子邦彦の著書に心酔し、東大の大学院で直接学んだ。

26歳の時、多くの微生物に見られる「生きているとも死んでいるとも一見区別がつかない」休眠現象の過程を理論化。「生命現象の謎の解明につながる画期的成果」として国際的に高く評価された。「生物の豊富な知識と、深い論理性をあわせもつ逸材。世界をリードする研究者になるだろう」と金子は期待をよせる。

姫岡は言う。「自分の疑問や欲求に正直なのが僕の強み。熱力学に匹敵するような生命の大理論を打ち立てたい」

「共に学ぶ」ことが天才を育てる 取材した記者の眼

天才は「孤高の存在」というイメージで語られがちだが、実は特定の時代や地域に集中して現れることが多い。

アインシュタインが大活躍した20世紀はじめ、欧州ではドイツを中心にボルン、ボーア、シュレーディンガー、ハイゼンベルクなど、物理学の巨星が輩出した。他にもモーツァルト、ベートーベン、シューベルトなどの「楽聖」が登場した1800年前後のウィーン、現代のシリコンバレーなど、枚挙にいとまがない。日本の漫画文化を創造した才能が輩出した「トキワ荘」や、高校・プロ野球の「松坂世代」も同様だろう。

「個性的な才能を伸ばす」ことと「共に学ぶ」ことは、どう結びつくのだろうか。

「ヨハネ研究の森」の横瀬和治は、「学び」の原型を、母親と赤ちゃんの「共同注視」という行為に見る。母親が指さした物を赤ちゃんが見ることで母親が喜び、それによって赤ちゃんも色々なものを指さし母親と喜びを共にしようとする。

「世界に新しいものを発見した驚き」。それを人は、まず他者と共有したいと願い、そのことがより大きな喜びをもたらす。SNSの隆盛はその何よりの証しだ。

「トキワ荘」の若き漫画家たちも、自分の作品ができあがったら、仲間たちに見せて「おもしろいな!」「すごいな!」と言ってもらいたかったに違いない。見せられた方も負けじと知恵を絞り、新しい表現を模索する――。「才能」とは、そんなポジティブな共同性の中で磨かれ、育まれるものではないか。

「研究の森」は全寮制だし、MITメディアラボも、様々な才能が集うことによる切磋琢磨を狙っている。

これらの「共に学ぶ場」と現代の公教育との大きな違いは、「目指す目標」だろう。「研究の森」の討論で尊ばれるのは、知識をひけらかしたり他人を論破したりする言葉ではなく「おもしろくて、他の人がより深く考えるきっかけになる言葉」だという。トキワ荘やウィーンの音楽界で高く評価されたのも、「他者を感動させ、より豊かにする作品」だった。

一方、現代の学校の目標は、結局のところ「テストの成績」という一点に収斂(しゅうれん)する。他人の100点満点のテスト結果を見て、心豊かになる人はそうはいないはずだ。

近代学校教育の目標は「ある程度の知識と判断力を持ち、集団の規律を乱さず、命令には従順」という、大工場や軍隊で働くのに適した画一的な人材、そしてそれらの人々を使役する一握りのエリートを育てることだった。

しかし、人工知能が発達し、人類が大半の単純労働や反復労働から解放されることが確実な近未来、こうした人材は完全に行き場を失うだろう。代わって求められるのは、「自らの言葉や行為、創造物によって、他者により深い洞察や驚き、喜びをもたらし、自他ともにより豊かになる力」ではないか。

もちろん、人によってその能力に差はあり、特に秀でた人が「天才」と呼ばれるのだろう。しかし、程度の差こそあれ、そうした能力を身につけた人の「世渡り」が相当快適で、安定したものとなることは疑いない。

子どもにそうした能力を身につけさせるには、どんな教育環境がふさわしいか。学校教育を絶対視せず、一人一人の親が真剣に考えるべき時だと思う。