5月末、ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会は2週間後に迫っていた。日本サッカー協会の前技術委員長、小野剛は岡田武史からの電話を受けた。
「この苦しい状況が、チームに結束力をもたらす最後のピース(一片)になるかもしれない……」
強化試合で日本代表チームは連敗中だった。たじろぐような重圧の中にいるはずの岡田の声は落ち着いていた。
5月24日の韓国との壮行試合に完敗したあと、代表チームはスイス・ザースフェーで合宿に入っていた。続く30日のイングランド戦、6月4日のコートジボワール戦にも連敗。年明けから高まっていた岡田への批判は先鋭的になり、岡田自身が掲げた「ベスト4」という目標とチーム状態のギャップにしらけたムードが漂うことになる。
岡田が代表監督に就いてW杯に初出場した1998年フランス大会で、小野はコーチを務めた。前年のアジア最終予選途中に監督の加茂周が成績不振から更迭され、コーチだった岡田は遠征先で監督就任をサッカー協会幹部から説得された。小野が「コーチとして手伝ってほしい」という電話を岡田から受けたときも、強烈なバッシングと悲観論が渦巻くまっただ中だった。
「いきなり抱えきれない巨大な岩を持たされた。人生10年分の体験をした」
岡田はそう述懐する。監督経験はなかった。自信を失った選手と重圧と責任を半ば押しつけられ、七転八倒したのだった。
その道のりを傍らで見てきた小野は、岡田の強みを「とことん苦しんで悩んで必死に考える。だから土壇場で開き直れるし、思い切った決断ができる。経験を積んで身につけた耐性の強さ」と表現する。
98年W杯の出場を決めたマレーシア・ジョホールバルでのイラン戦で岡田が下した采配は、チームの点取り屋として活躍してきた三浦知良を後半途中でベンチに下げる大胆な交代策だった。過去の代表監督が誰も手をつけなかったことだ。
13年後のW杯でも、岡田は同じように、もがきながら活路を見いだしていった。
主力の中村俊輔、予選で活躍した岡崎慎司らを先発から外し、最後の1カ月でチームを変化させていった。日本や対戦相手の試合映像を繰り返し見ては、模造紙やノートの上で試合の流れを想定してゲームプランを探った。正解のない問いを前にもんもんと過ごす日々。日本を離れてから睡眠時間は1日4時間程度になっていた。神経を研ぎ澄ませるように、コーチたちとの戦術的なミーティングも開こうとしなかった。
W杯から既に約6カ月が過ぎた。岡田は「もう昔のことは忘れた」ととぼけるが、苦境を振り返る言葉は熱を帯びる。
「考えても考えても結論は出ない。この選手を使えば勝つ確率が55%で別の選手なら60%、なんて数字はない。最後は勘。経験を積むと理屈より勘を優先する勇気が出てくる。周囲の目や評価なんて余計なものを気にしたら勝てない。素の自分になって、明日死ぬとしたらお前はどうするんだ、と自問する。最後に開き直れるかどうかは、どん底を知っているかどうかだ」
W杯初戦のカメルーン戦に競り勝ったチームは自信と結束力を一気に高めて、16強に進んだ。初戦の布陣は、コートジボワールにたたきのめされた夜にひらめき、決断したのはカメルーン戦の4日前だった。
岡田の中で、13年前にW杯初出場にこぎ着けたジョホールバルと、今回の南アフリカとはつながっている。ジョホールバルでのイラン戦の前夜、「勝てなければ、しばらく日本には住めなくなると思う」と妻の八重子に電話で覚悟を告げた。受話器を置いた瞬間、余分な力が抜けた。
「全力を尽くして負けたら力がなかったということだ。それ以上はしょうがないとふっと思えた。あのとき、押しつぶされそうな重圧や逆境を克服する遺伝子にスイッチが入った気がした」
今年のカメルーン戦前夜も、八重子に電話した。「明日は必ずいい試合ができる。その手応えがある」。不安や焦り、また過信とも無縁の、すべてをやり尽くしたからこその穏やかな言葉だった。
岡田はいま、南アから帰国直後の喧騒(けんそう)を離れて、まったく新しい取り組みを進めている。早大生時代から興味を持って活動してきた環境問題と、野外活動、さらにサッカーを組み合わせたプログラムを作り、子どもたちに様々な体験を通して生きる力を身につけさせられないか。来春をめどにNPOか財団法人を立ち上げ、夏休みには小学生を対象に第1回のプログラムを開く予定だ。
岡田の目には、現代の日本人はあまりにも弱くなってしまったと映る。一方で、ベスト4という目標を据え、挫折や重圧を乗り越えていくことで選手や自身はたくましくなれた。
「これだけ豊かな日本で自殺者は年間3万人を超える。人間が本来持つはずの生存意欲を失ってきていないか。社会を変えることはできなくても、今の社会に適応できる人間を育てることはできるのではないか」
そう岡田は考えている。
「重力がなければ、骨も筋肉もだめになってしまうのと同じで、困難や挫折を乗り越えるような体験を与える場が必要なんだ」
広い人脈を生かして組織作りは進んでいる。ライフワークとして継続させるために、大手広告会社の協力やスポンサー探しも具体化しつつある。講演などの合間を縫ってこの夏から全国各地に同様の活動に取り組む施設を見て回ってきた。年明けには、英国で2、3カ月単位で実施される長期の野外活動を実体験する計画だ。
「1年ぐらいは試行錯誤するだろう。教育者でもない自分にできるのか、やっていいのかと思う部分もあるけど、始めてみないと見えてこない。バリバリ動けるのは今のうち。やりたいことをやり残したくない。常に何かにチャレンジしている生き方が好きだから」
Jリーグ3チームを含め、国内外からの監督就任要請をすべて断った。しかし監督としてチームを持つ強い欲求はある。それをひとまず封印するのは、「今の自分は多くの犠牲の上に成り立っている。自分の子どもに対してやってやれなかった罪悪感みたいなものもあるから」と言う。
岡田は、まっさらな2011年を迎えようとしている。
(文中敬称略)
(文=編集委員・潮智史 写真=大橋仁)
自己評価シート
どんな力が、「人生の壁」を突破する上で助けになっているのだろうか。編集部が示した10種類の力について、自己分析をお願いし、自信がある順番に並べ替えてもらった。
10項目を記した紙を手渡すと、「難しいな~」とひと言。ひと眺めして書き込み始めると、そこからはさほど迷うことなく上位から順番をつけた。もともと、「監督の一番の仕事は決断すること」と話す。「最後に自分ひとりですべてを決める監督は孤独」とも。決断力を最初に選んだのは予想通りだった。
注目していたのは「運」を何番目に置くか。運不運といった不確定な要素をそぎ落とし、論理的に勝利を追求するのが監督という立場だからだ。
口癖は「運はつかむもの」。代表チームでも選手に繰り返し語りかけた。例えば、50m先のラインまで走るとする。多くの選手はライン手前でスピードを緩めてしまうものだ。それでいいのか、と。
「運は誰にでも公平に流れている。それをつかむかどうかは自分次第。そのたった一回、手を抜いたことで、おれは運をつかみ損ねたくない」
ミーティングのたびに、「本気でベスト4を目指してみないか」と呪文のように問いかけ続けたことに通じている。
「勝負の神様は細部に宿るという。必死でやっていると不思議とごほうびをくれるもの」。周到な準備と努力の一方で、およそ論理的でない一面が同居するのもこの人らしさである。
「運」は結局、6位に置いた。
岡田武史(おかだ・たけし)
1956年、大阪府出身。
80年、早大から古河電工(現在のジェフユナイテッド市原・千葉)に入り、主にDFとして活躍。日本代表として24試合に出場。
97年、日本代表コーチから監督に就任。W杯初出場に導いた。その後コンサドーレ札幌、横浜F・マリノスの監督を歴任。横浜では03、04年とJ1を2連覇。
07年、病に倒れたオシム監督に代わり、2度目の代表監督に就いた。
10年W杯南アフリカ大会で16強入り。