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グルメな人ほど食事は貧しい? 食番組ブームの大いなる矛盾

マイケル・ブースの世界を食べる 更新日: 公開日:

食がテーマのテレビ番組を見れば見るほど家で料理をしなくなり、食生活が貧しくなる。現代における大いなる矛盾の一つだ。


日本滞在中に、テレビのチャンネルを回していると、この国の関心事は食べ物以外にないのかと疑ってしまう。番組の実に2本に1本は、食べ物がテーマのようだ(運が悪ければ、私が出ている番組に出くわす方もいるだろう)。と同時に、自宅で料理をする日本人は、減る一方だという話をよく耳にする。

つまり、テレビを見る時間はあるのに、料理をつくる時間はないということだ。一体何が起きているのか?

これはもしかして世界の終わり、文明における栄枯盛衰の最終局面かもしれない。他人が料理している様子を、ソファに座ってインスタントラーメンや宅配ピザを食べながら長時間見るなんて、何かが間違っている。この食番組への執着はある種、霊的信仰の代わりと言えるのではないか。最高のマカロンの作り方や、一番いけている具を入れているラーメン屋のオヤジを見て、気を紛らわせているのだ。さもないと、この神なき世界における諸行無常の空しさに、思いを巡らせるはめになるから。

「仮想飲食」の世界



スポーツや芸術も似たような役回りかもしれない。でもスポーツは必ずしもパティスリーほど美しくないし、芸術は往々にしていささか退屈だ。一方、食は見目麗しく、対決方式にすれば面白くなる。危うさ、やじ馬根性、目の保養。食番組には、この全ての要素がつめこまれている。

それだけでなく、食文化はそこに住む人の地理や経済、歴史に加え、秘めたる願望や、目に見えぬ不安までをも浮き彫りにする。だから私は食番組の擁護派になった。食に関する文章を書くのが好きなのも、人への興味が尽きないからで、食こそが人間、あるいはその国の核心に一番迫りやすい方法だと思っている。

だが「食番組中毒」を自認する私でさえも、現状は行きすぎていると認めざるを得ない。食番組頼みの次なる展開はいかに? 我々の住む世界において、バーチャルリアリティー(仮想現実)化が進んでいることは確かなようで、となると多分、「仮想飲食」が食番組の進化形になるという理屈も成り立つ。

私が食番組を見るのは、家で何をつくるかを考えたり、旅行中にどこで食べるのかについてアイデアを得たりするためだ。つまり、画面で見るものと、おなかの中に入れるものは、直結している。もしこの現実とのつながりが無くなったら、どんなことが起きるだろうか。

全身白のボディースーツを着て、閉ざされた空間で人間に必要な全ての栄養素を含む「プロテイン・カプセル」に舌鼓を打つといったことが、10年以内に起こるだろう。ヘッドマウントディスプレーが、「吉兆」や「すきやばし次郎」といった店で食事をしているかのように、視覚的にも感覚的にも正確に再現してくれるはずだ。

一流の味の民主化という点では、好ましいという人もいるだろう。でも私はそうは思わない。

私がまだ若かったころ、「テレビなんて消して、外に出て、もうちょっとましなことをしてみたら?」と宣伝する子ども番組があった。

悪くないアドバイスだ。あなたもきっとできるはず。「テレビなんて消して、外に出て、料理をつくってみたら?」