「ディグニティ」 ヤタさんの生を支えた死に方

「私は安楽死するのよ」
念を押すようにヤタさんは言った。
あなたが私の1日を大切に思うのはうれしいけど、正直それは、残りわずかの生に何かポジティブなものを付与してくれるようなものではない。ただただ苦しくて、耐えがたくて、切ないだけ。会えない友人がいてももう構わない。それに、意識がなくなったあとのボロボロの体が、排泄(はいせつ)なども含めてどんな風にあなたに迷惑をかけるかと考えるだけで、私のディグニティは踏みにじられてしまう。苦痛を感じさせなくしてもらいたいのではなくて、終わらせてほしい。「はい、今死にます」ってちゃんとわかって、安心して死にたい……。安楽死と終末期セデーションの差は、私にとっては大きい。
一言一句を思い出すことはできないが、彼女の言葉はおおかたこんな内容だった。
ディグニティ。それは、彼女が「断じて譲れない」とした人生の基盤だ。日本語では「尊厳」と訳されるが、改めて意味をたどってみると、「外から与えられるものではなく、誰もが内側に持っている絶対的・内在的な価値」「信念や価値観、人格を大切にし、それを貫いて生きること」、そして「人生の選択を自ら決める自己決定権が守られていること」といった、人間の根源的な価値や精神性を指していた。
「ディグニティのある死を遂げられるオランダで死ねるのがうれしい」とは、いざというときは安楽死で逝くと心に決めて生きていた彼女が、日頃からよく口にしていた言葉だ。
「ディグニティのある死」が何を指すかは、その国の文化や法律によっても異なるだろうが、ヤタさんが言っていたのはオランダ語に当たる「waardig sterven(=尊厳のある死)」。ここでの「ディグニティ」は人によって定義も異なり、価値観や信念に沿った自己決定に基づいて「自分らしく死ぬこと」と解釈される。つまり、それぞれの人生観に即した多様な死に方が当てはまるということだ。
一方、この日本語訳とされる「尊厳死」を調べてみると、延命治療を行わずに自然な死を迎えることを指し、自然死や平穏死とほぼ同義とあった。「その人らしさ」という多様性を含まずに「尊厳」という言葉を限定的に使うのは、これを定義するのが患者ではなく、医療制度の側だからということだろうか。
4月28日月曜日。彼女は医者に「もう今週いっぱいでいい」と言い、その週の金曜日に逝くと決めた。
それからの3日と少し、ほぼ一日中寝ていて昼夜の感覚が薄れていた彼女は、目を覚ます度に「今日は注射の日?」と私に尋ねた。まるで、死を待ちわびているようだった。
「私への供養だと思って、この安楽死のこと記事にしなさいね。ちゃんと写真も撮るのよ」
安楽死を翌日に控えた夕方、ぼんやりと傍らに座る私に、ヤタさんは言った。
こんな時に何を言い出すのかと思いながらも、「では、日本の読者に何か一言!」とふざけて聞いてみると、「これ、最高よ〜!」とおどけて答えた。だがそれは、残る力を振り絞って発した、本心を端的に表した一言ではなかったかとも思う。満足感がにじみ出ていた。
独りで外国に暮らし、最後まで人に迷惑をかけずに自律して生き抜く覚悟を持っていたヤタさんには、自ら選んだ生き様と死に様があった。「ここまで」と自分の意思で幕を引いていく彼女が、とても彼女らしく見えた。
葬儀会社は、翌日正午過ぎに手配してある。翌々日の新聞に掲載される死亡広告の印刷見本を、彼女は自分の目で確認した。自らコーディネートした華やかな死に装束も、きちんとハンガーにつるして用意した。
「あんたもちゃんと寝なさいね」と言うと、彼女はこれまでの夜と変わらない様子で眠りについた。
その日の昼間、家庭医から電話があり、「今後はできるだけ鎮静剤を与えないように」と言われていた。時々混乱状態になることがあり、そのときに与えるよう指示されていた薬だ。彼はこう続けた。
「安楽死の前に最後の意思確認をする時、できれば意識をしっかりと持っていてほしいからだ。それでも、もしまた強い混乱状態になってしまったら、これまで通りに薬を与えて構わない。ここまで万全に準備をし、安楽死の意思に揺らぎがないことがわかっている場合、たとえ最後の意思確認ではっきり“イエス”と口に出せなくても支障はないという前例は十分にある。一番大切なのは、最後の瞬間まで、痛みや不安を感じることなく安らかに過ごせることだ」
静かな夜が明けて、午前6時に痛み止めを飲ませるために様子を見に行くと、彼女は機嫌良く目を覚まして少しおしゃべりをした。
午前8時になると在宅介護の人が来て、着替えを手伝ってくれた。午前9時には、小さな管のついた留置針をあらかじめ手首に取り付けるために、「技術看護師」が来た。様々な医療目的のために留置針を患者に取り付ける専門職だが、仕事の大半は安楽死の前に患者宅や施設でこの作業を行うことだと言い、その女性看護師は黒いワンピースを着ていた。
聞けば、闘病生活が長かった患者などではまれに取り付けがうまくいかないことがあり、そんな時は救急隊員に出動を要請することもあるらしい。安楽死直前という、緊張と感情が張りつめる部屋で起きるそうしたトラブルは、患者や家族だけでなく、待機している家庭医にも大きな精神的負担を与える。
スムーズに処置を終えると、「担当医には、無事準備ができたと報告しておきます」と言って帰って行った。
午前10時頃、安楽死を見届けるために2人の友人がやってくると、確たる実感を持てないままヤタさんに言葉をかけた。
そして午前11時少し前、家庭医2人が到着した。まず部屋の入り口近くにいた私たちに「お別れはすみましたか?」、そして、奥のベッドで横たわるヤタさんに「準備はできていますか?」と控えめな笑顔で尋ねた。
まっすぐに医者を見て「はい、準備はできています。ありがとう」と落ちついて答えるヤタさんに、これから間もなく致死薬を打つ医師が「ヤタ、とてもきれいなブラウスですね。華やかな感じがあなたにぴったりです」と言った。
その後、これから打つ5本の注射についての説明があった。2本目に打つ致死薬は痛みを伴うので、まず麻酔薬を打つ。致死薬の後は、筋肉を弛緩(しかん)させる薬やそれらの薬を全身に流すための薬を打つとのことだったが、詳細はもう頭に入ってはこなかった。唯一印象深く覚えているのは、1本目の注射が打たれる様子を、安堵(あんど)の笑顔で見守るヤタさんの表情だ。
致死薬を注射する頃には彼女の意識はすでになく、呼吸も止まっていたように見えた。そして5本目を打つ頃には、握っていた手は冷たかった。
20分ほどすると、監察医がやってきた。安楽死は自然死ではないため、死後の検視は法にのっとったプロトコル(手順)である。処置の時間は家庭医が事前に知らせていたので、すでに近くまで来ていたようだった。私たちにお悔やみの言葉を告げると、早速医師から経緯を聞き取り、空になった5本の注射器や医療書類、状況、そして遺体の状態を確認。この安楽死が法律の定める通りに行われたことを認めると、埋葬(火葬)を許可する書類にサインした。
ヤタさんが思い描いたシナリオ通りに、全てが淡々と終わっていった。
もしこれが友人ではなく家族だったら、末期がんではなく他の病気だったら、そしてヤタさんではない他の人だったら、安楽死の印象は全く異なるものになっただろう。それでも、耐えがたい苦痛を終結させるその瞬間をどう迎えるかを共に語り合えたことは看取る側にとって大きな慰めであり、ここまで心の準備を整えて集中して死に向き合えたのは、安楽死だったからこそではないかと思う。
これまで幾度か安楽死に関する取材をし、遺族や医師、安楽死を望む人、関連機関から話を聞いてはいた。だが、手続きが進んでいく過程で湧き上がる問いや、死に行く側の覚悟と見守る側の心の揺れ、オランダの安楽死制度や医師への信頼感などは、渦中に立って初めて気づくことばかり。哲学的な考察や人から聞く話からでは実感できなかった、安楽死制度の現実を目の当たりにした。
話はかわるが、ヤタさんをみとることになったのは、一緒に見た「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」という映画がきっかけだった。がん末期の女性が自殺ピルで死のうと決めるが、その時には隣の部屋にいてくれないかと友人に頼む。そして女性が亡くなるまで共に過ごすという内容だ。
見終えたあと、「ねぇ、私が死ぬ時、これやってくれない?」とヤタさん。まさかその数ヶ月後に現実になるとは思いもせずに「いいよ」と答えた。映画の中の美しい情景とは似ても似つかぬドタバタな状況ではあったが、思い返せば、どの瞬間も心に焼き付くかけがえのない18日間だった。
安楽死という選択肢があることで、自分らしく死ねるという安心感を持って生きていたことが、彼女をどれだけ強くしていたか。ヤタさんが身をもって見せてくれたことを、約束通り、供養の気持ちを込めてまとめた。
自分がどのように最期の時を迎えるかはわからない。だが、もしがんのような病で死ぬことになるのなら、私も安楽死で逝くことを選択肢に入れたいと思う。
*前半はこちら