様々な建築様式、入れ替わる住人 世界遺産のリビウ歴史地区と多様性

リビウはさまざまな帝国、国に支配され、街には時代ごとに異なる様式の建築物が残る。その歴史地区は1998年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録され、ロシアの全面侵攻で2023年、存続が危ぶまれる危機遺産リストに加えられた。建築士のユリアン・チャプリンスキーさん(43)は、欧州と東方世界の間に置かれ、文化の交差点となってきたリビウは、住む人が入れ替わりながら受け継いできた「多様性の街」だと強調する。
10世紀、リビウはキリスト教を受け入れたキーウ・ルーシ公国の版図内にあり、13世紀から都市建設が始まったが、14世紀にポーランドの支配下に入った。キーウ・ルーシの東方正教とポーランドのローマ・カトリックの文化が共存する一方、初期の都市建設は典型的なゴシック様式で進んだ。
16世紀前半の大火で多くの建物が破壊された後は、イタリアの建築家らが招かれ、ルネサンス様式で再建が進んだ。現在の市庁舎を囲み、アンティークな店やカフェ、博物館が立ち並ぶ市場広場【衛星写真参照】はこの時代の建築群がそのまま残る。17世紀からは、プロテスタントの勃興に危機感を深めたカトリックの改革運動にともない、各修道会の教会建築がバロック様式で進んだ。
18世紀末のポーランド分割でリビウを支配下に置いたオーストリア帝国は、帝国内で最も貧しかった東ガリツィア地方(現在のウクライナ西部)の開発で、リビウの都市建設に力を入れた。19世紀後半からの半世紀に建設された、ゴシック、ルネサンス、バロックの折衷様式の建物は現在の街の外観に大きなインパクトを与えている。
過去の様式との決別を図った19世紀末からの芸術運動「ウィーン分離派」(セセッション)の影響も受けた。市場広場の東の通りでは、バロック建築の代表格とされる教会のドーム、ルネサンス様式の塔と並んで、正面の装飾が美しく、屋上にウクライナ西部ザカルパチア地方に特徴的な塔を載せたセセッション様式の建物を眺められる通りがある。
キーウとは異なり、リビウは第1次と第2次の世界大戦で大きな破壊は免れた。このため、第2次大戦直後にモスクワやキーウで巨大さを競った「社会主義の理想と秩序」の象徴・スターリン様式の建築も、リビウでは「街に適合した」小規模なものにとどまったという。その後は、日本の建築家らの影響を受けた「ソビエト・モダニズム」と呼ばれる建築も広がった。
リビウは支配層が代わるたびに人も入れ替わった。特に20世紀中の変化は激烈だ。かつて市の人口の3分の1を占めたユダヤ系住民は1941~1944年のナチス・ドイツの占領でほぼ壊滅した。第2次大戦直後は、ウクライナ西部を併合したソ連によって最大多数のポーランド人が追われ、その住宅はソ連当局に接収された。
長くポーランドの圧政が続いたウクライナ西部では、特に第1次、第2次大戦の戦間期にウクライナ独立運動が活発化した。ロシアのプーチン大統領はしばしば「ウクライナ西部の民族主義者たち」を敵視し、2014年の軍事介入、2022年の全面侵攻に際して「ウクライナ東部のロシア語を話す人々を守る」と宣言した。
しかし、チャプリンスキーさんは「プーチンは間違えている。第2次大戦後、失われたリビウの人口を埋めたのは、ウクライナ東部やソ連の他の地域から来たロシア人たちだ」と話す。「そのときリビウに住み始めたロシア人も、その子供、孫たちも、今はウクライナを自分の国だと考え、プーチンに反対している。ユダヤ人、ウクライナ人、ポーランド人、ロシア人のためにある都市。リビウは多様な歴史を包み込み、欧州連合(EU)のモデルになれる都市だ」