失脚を恐れた朴正熙大統領
1961年にクーデターで政権を掌握し、1963年から79年まで軍事独裁を続けた朴正煕(パク・チョンヒ)。力ずくで人を屈従させ、欲望のままに国を牛耳るという傲慢な自己陶酔に浸っていた朴が1972年に公布したのが「維新憲法」である。
大統領の再任制限廃止、大統領選挙の統一主体国民会議という追従者たちによる間接選挙への改編、国会議員の3分の1を大統領が任命するなど、大統領にすべての権力を集中させた維新憲法は、朴正煕独裁のためだけの道具であり、そこでは三権分立は蔑ろにされ、民主主義はずたずたに破られ、韓国の歴史の時計の針は、文字通り専制王権時代に逆戻りしてしまった。
維新憲法のもとでは、朴正煕政権に対するいかなる批判も禁じられ、批判そのものが「犯罪」の烙印を押された。そうしてメディアの報道から個人の表現に至るまであらゆる自由は抑圧され、人間として享受すべき基本的人権までもが失われていった。
維新憲法が、最高権力の座に居座り続けたいという朴正煕の歪んだ欲望が生み出したものであることはまぎれもない事実であるが、裏を返せばそこには、大統領の地位を失い、権力の座から引きずり降ろされることに対するとてつもない恐怖が見え隠れしている。維新憲法を制定し独裁体制を強化する姿勢は、朴の恐怖の表れであった。
大統領選で朴正熙大統領に肉薄した金大中氏
そしてこの時代にもっとも彼を脅かしていたのが金大中(キム・デジュン)だったのだ。
2期までと定められていた憲法を改正して3期目の大統領を目指した1971年の大統領選挙で、朴正煕は国家予算の10%とも言われた莫大な費用をつぎ込み、メディア統制、地域分裂助長、投票箱のすり替えなど様々な不正を働いたにもかかわらず、野党候補の金大中に僅差でかろうじて勝利する結果に終わった。
不正の限りを尽くしてこの結果ということは、公平な選挙での朴の敗北は火を見るよりも明らかであった。
元KCIA部長で、朴に見捨てられてアメリカに亡命したキム・ヒョンウク(『KCIA 南山の部長たち』(ウ・ミンホ監督、2020)に描かれているように、その後フランスで殺された)は、1977年に米議会で、不正の上の僅差での勝利に、朴正煕は金大中を非常に恐れ警戒した、という証言を残している。
辛うじて大統領の地位にとどまることができた朴の頭にあったのは、最大の政敵であり脅威である金大中をどのように排除するか、の一点のみだったに違いない。そして維新体制が敷かれた1973年、日本の首都・東京で「金大中拉致事件」が起こる。
今回のコラムでは、日韓の外交問題にまで飛び火したこの拉致事件を正面から描いた日韓合作映画『KT』(阪本順治監督、2002)を取り上げ、事件の全貌とその後の展開を振り返ってみよう。
日本を舞台に遂行された金大中氏拉致計画「KT作戦」
中薗英助氏の『拉致-知られざる金大中事件』を原作に製作された本作は、日本に先駆けて韓国で公開された際、「単純拉致」を主張する保守派と「暗殺目的」を強調する進歩派というように、政治的路線の違いから意見は真っ二つに分かれた。
その背景には、金大中拉致事件の全貌が公開当時(そして現在に至ってもなお)明らかになっておらず、朴正煕指示説やKCIA単独実行説、日米無関与説まで様々な推測や仮説が飛び交っていたことが挙げられる。
真相究明に向けた動きは、1993年に日韓両国の市民団体を中心に始まったものの、政府レベルでは盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の2007年、KCIAの後身である国家情報院の「過去事件真実究明を通した発展委員会」を待たなければならなかった。
だが、政敵に対する国家暴力が朴政権下では確かに存在したという事実を明確にしたという成果は収めたが、証言者や物的証拠がほとんど残っていない状況下で真相の究明は困難を極め、朴による指示の有無はともかく、調査は「朴正煕の指示あるいは黙示があった可能性は十分に考えられる」という曖昧な結論で終結してしまった。こうして金大中拉致事件は「未解決事件」の一つとして歴史に刻まれてきたのである。
これらの状況を踏まえると『KT』もまた、歴史を題材にした韓国映画によく見られる「史実(fact)+虚構(fiction)=ファクション(faction)」映画に数えられるだろう。
金大中拉致をめぐる史実にフィクションが絶妙に絡み合い、作品全体に説得力をもたらしている。とりわけ、史実とは言い切れない仮説の部分においても蓋然性が高いために、制作から20年以上経った現在においても作品のスリリングさは失われていない。
外交的決着で冷え込んだ日韓関係、証言に食い違いも
史実としての事件の経緯は、以下のようにまとめられる。
このように拉致事件そのものは、映画でもほとんど史実に沿って描かれているが、フィクション部分でもっとも重要なのは、自衛隊の関与と船内での出来事についてであろう。
自衛隊(正確には元自衛隊員)の関与については、新聞報道を通して明らかになっている。自衛隊内で情報関係の仕事に就いていた某隊員(劇中では富田満州男)は退官して興信所に入り、普段から付き合いのあった在日韓国大使館の1等書記官でKCIA要員のキム・ドンウン(劇中では金車雲)から金大中の所在把握の依頼を受けた。
ただ映画で描かれているように、朴正煕が満州の陸軍士官学校出身だからKCIAに協力するようにと自衛隊の上層部が促した部分や、満州男と韓国人留学生の女性との関係は完全なフィクションである。
そしてヨングム号に乗せられ、海に沈められそうになった金大中を救ったのが誰かについては、「船を追跡してきた自衛隊の艦艇」「自衛隊の飛行機」「米軍の戦闘機」など、今でも様々な説が存在する。さらに、そもそも何も現れなかったとして「だから暗殺は計画になかった」という主張さえある。
実際にヨングム号の乗船員たちの間でも、飛行機の音を「聞いた」「聞かなかった」と証言に食い違いが見られる。その理由が記憶の混乱なのか、政治的圧力なのかはわからない。
映画では、米軍からの要請で自衛隊のヘリが出動したという説が採用されていた。当時のアメリカCIA韓国支部長や駐韓米国大使の証言を参考にすれば、金大中拉致の情報を入手したアメリカや日本が何らかの圧力をかけたのはもっともであろう。ただし船内でKCIA要員の一人が裏切ったために金車雲に殺されるシーンについてそのような事実はなく、KT作戦に加担したKCIA要員のなかにも金大中の政治的信念に同調する者がいた可能性や、クライマックスの緊迫感を高める効果の目的で取り入れたと考えられる。
朝日新聞の報道(2023年12月25日)によると、警視庁の捜査記録には、拉致当時のホテルのエレベーターでの目撃情報や現場で採取された指紋から、KCIA要員のキム・ドンウンを容疑者に特定した経緯が記されている。
これらの証拠をもとに警視庁は、朴政権に対し関係者の取り調べなど協力を要請したが、朴政権は事件への関与を一切否定し、「救国同盟」なる団体の犯行だとでっち上げた。だが明白な証拠を前にうそを貫くことはできず、キム・ドンウンを解任するなどして金大中拉致事件を終わらせようとしたが、事件は韓国政府による日本の国家主権に対する侵害という日韓の外交問題に発展、日本では朴政権に批判的な世論が高まり、両国の関係は急速に冷え込むことになった。
結局、アメリカが仲裁に入り、朴正煕が田中角栄首相宛てに「遺憾」を表明した親書を送り、金大中に海外での発言の自由を保障するといった日韓政府の合意の末、事件は犯人逮捕ではなく外交的な決着がつけられた。この時、朴正煕から田中角栄に事件を揉み消すための4億円もの工作金が渡ったという証言もあるなど、依然として真相は隠蔽されたままだ。
朴正煕暗殺未遂事件で日韓の形勢逆転
事件の闇の深さは、事件を知る満州男に銃声が重なるラストシーンで象徴的に描かれている。朴正煕の関与については判明できないまま、先述した「過去事件真実究明を通した発展委員会」は2007年に、「KCIAの画策による犯行」と公式発表し、韓国政府は日本政府に正式に謝罪もしている。ただし、本作の韓国版ポスターにはやや踏み込んだキャッチコピーが刻まれている。「彼が死んでこそ俺が生きる」――「彼」とは「俺」とは誰か。公式発表の内容にかかわらず、当時国民の多くが金大中の拉致を朴正煕の指示によるものと考えていたことが、この文句に集約されているように思えてならない。
ところが、拉致事件からちょうど1年後の1974年8月15日、「朴正煕暗殺未遂事件」が世界を揺るがせた。光復節(独立記念日)式典で演説する朴正煕を銃で暗殺しようとして弾が外れ、代わりに妻であるユク・ヨンスが殺された事件で、犯人として在日朝鮮人のムン・セグァンが現場で逮捕された。
ムンは日本政府が発行したパスポートで渡韓し、使用された拳銃は日本の交番で盗まれたものだったため、韓国政府は日本政府に対して謝罪と共犯者検挙の協力を要求、1年前とは形勢が入れ替わった形でまたしても日韓の外交問題となった。
今回も再びアメリカの仲裁と、日本の協力姿勢を示す田中角栄から朴正煕への親書が送られ、事態は収拾された。だがここでも解決されていない謎は多い。韓国政府はムンが朝鮮総連の指令を受けたと主張したが、実は彼は、拉致事件発生直後に結成された金大中救出対策委員会のメンバーであった。ムン自身、自分がユク・ヨンスを撃ったわけではないと供述しており、インターネット上で見ることができる銃撃の瞬間を捉えた映像でも、ムンとは異なる方向からの銃声でユクが倒れたように見えることも否定できない。
確かなことは、拉致事件によって外交的に追い込まれていた日韓関係が、この暗殺事件によって形勢が逆転し韓国が優位な立場に立ったという事実であり、この事件によって一番おいしい思いをしたのは朴正煕政権だったということだ。さらに朴正煕が数えきれないほどの女性に対し性的搾取を繰り返し、それを苦々しく思っていた妻との関係も悪化していたことを考えると、暗殺事件が自作自演であったという説にも説得力がある。
さて、金大中は拉致から生還後、1974年12月まで「保護措置」という名の自宅軟禁の状態が続いたが、後のインタビューで彼は「どんな個人に対しても恨みや復讐心を抱くことはない。だがこのままでは韓国の将来が危ない。そして国民も絶対に幸せにならない」と語っている。権力の私物化に執着し続けた朴正煕と、権力の民主化に尽力した金大中。2人のこの違いにこそ、政治のあるべき姿が見いだせるのではないだろうか。
暗殺未遂事件から5年後の1979年10月26日、朴正煕はKCIA部長キム・ジェギュによって暗殺され、朴の腹心の部下であった全斗煥(チョン・ドファン)がクーデターで軍を掌握、軍事独裁は依然として続いた。1987年6月の民主化闘争によって大統領の直接選挙が実現したにもかかわらず、野党側が金大中と金泳三(キム・ヨンサム)に分かれて候補者を一本化できなかったがために全斗煥側にいた盧泰愚(ノ・テウ)が後を継ぎ、5年後の大統領選挙では金泳三が盧泰愚と組んで金大中に対抗したため、初の文民政権に立ったのは金泳三であった。
軍事独裁に徹底して立ち向かい、民主化に対する国民の希望を背負い続けた金大中がようやく大統領の地位に就いたのは1998年、74歳のときだった。