1. BeRealな試合観戦
「BeReal.」とはフランス発の盛らないSNS。全世界で10代、20代のユーザーに人気を集め、大会中も多くの画像がパリから発信された。オリンピックメダル争いの試合はAI技術によってまさに「リアル」に全世界に届けられた。
フランス南部の港町マルセイユで行われたセーリング競技。新種目の混合470級で、吉岡美帆選手(33)と岡田奎樹選手(28)組が銀メダルを獲得した。
セーリング競技で日本勢が表彰台入りしたのは2004年アテネ大会以来20年ぶり。マルセイユ沖のレース会場で威力を発揮したのは、オリンピックの公式タイムキーパーを担当するオメガとオリンピック放送機構(OBS)がAIを駆使して開発した高性能モーショントラッキングテクノロジーだった。
セーリングのレースは広大な海域で行われるため、これまでも空撮映像などが使われてきたが、海流や風の強さなど目に見えない自然環境がレースを左右するため、視聴者には試合展開がわかりにくい。
しかし、オメガとOBSのシステムは、こうした自然環境のデータやそれを受けた各艇のコース取り、速度などの情報を数値化。そのデータを高性能カメラの映像に取り込んで、メダルレースで吉岡・岡田組のヨットが刻々と順位を変える、手に汗握る試合展開を伝えた。「ゲームチェンジャー」ともいわれた今回の画期的なシステムによって、今後はセーリング競技も野球やサッカーのように気軽にTV観戦ができる種目になるかもしれない。
大会期間中、多くのメダルマッチが日本時間未明に行われ、毎朝起床した際に、NHKやTVerの特設サイトでまとめ映像を視聴した方々も多かっただろう。
日本選手団が獲得したメダル数は合計45個。体操、フェンシング、レスリング日本代表チームのメダルラッシュや、陸上女子やり投げの北口榛花選手(26)の金メダルまでのストーリーなど5~7分のちょうどいい編集動画を見ることができたのは、公式テクノロジーパートナーのインテルが生み出したAIプラットホームのおかげだった。
パリ大会ほど視聴者が試合後すぐにハイライト映像を楽しんだオリンピックもなかったのではないか?
試合中の数ある見どころシーンをインテルのAIが視聴者の満足度が高くなるように即座に編集し、世界各国に提供された。映像素材はそれぞれの国の放送局用にカスタマイズできるよう工夫された。例えば、新種目ブレイキンの「B-BOY」3位決定戦に登場した日本代表の「シゲキックス」バージョンの素材は日本向けに。対戦相手「ヴィクター」バージョンは、彼の出身国であるアメリカの放送局用に、という形で。
アメリカでは高性能カメラによって中継された開会式を、映画館のIMAX大画面で楽しめる画期的な取り組みが行われた。米NBCは、アメリカ人なら多くの人が知る著名なスポーツ・キャスター、アル・マイケルズ氏の実況をAIで再現させ、大会期間中、毎日、ハイライトクリップを配信した。米ワシントン・ポストはマイケルズの声は「フェイク」としながらも、「驚くほど素晴らしいハイライト映像だ」と評価した。
アイルランド出身の世界的なAI専門家、キアラン・ギルマリー氏は「これまでで最高のオリンピック体験の実現」と評価。その上で、「このイノベーションは、AIが世界中のスポーツに変革をもたらし、誰にとってもスポーツをより身近にし、エキサイティングなものにするかということの序章に過ぎない」と分析している。
2. 人工知能が生み出したミクロの勝負の世界
AIがコンマ1秒の世界で勝敗を分けるオリンピックの試合で審判補助を行うことも、パリ大会が決定づけたことは間違いない。
女子体操界のスター、シモーン・バイルス選手(27)がパリ大会で獲得した金メダルは団体総合、個人総合、跳馬の3個。東京大会では精神的ダメージから種目を棄権していただけに、見事な復活を遂げる演技だった。
完璧なバイルス選手の技の成功を陰で演出していたのが、富士通が開発した「Judging Support System(JSS)」だった。
近年、体操競技は技の複雑化や高度化が進んでおり、瞬時な判断が要求される数々の技認定に人間の目では正確に把握できない状況が出てきた。JSSは競技者の動作をセンサーで捉え、数値データとして分析することでAIが技を自動判定できる。採点の公平性、透明性の確保という観点からオリンピックにとっても大きな威力を発揮した。
サッカーでも2022年カタールW杯で「三笘の1ミリ」を生んだAI技術の進化が世界を震撼させ、パリ大会のサッカー競技でもオフサイドの微妙な判定が勝敗を左右した。
一方で、柔道や男子バスケット競技でみられたように、人間の審判による「誤審」によって、競技の誠実性や高潔性を保つための概念「スポーツインテグリティ」に不安や不満が残った場面も見られた。
オリンピック競技の全てに高度なAI技術が入った審判補助が整備されているわけではないが、パリ大会を境に、スポーツのありとあらゆる試合にAIが勝敗を決めるシステム導入の流れが一気に加速するのは間違いないだろう。
2028年にロサンゼルスで開かれる次のオリンピックには、野球が復活する可能性がある。出場に意欲を示す地元ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手のバッティングやピッチングの判定に、AI技術がどのように使われるかは楽しみでもある。
3. 誹謗中傷対策にもAI
パリ大会に先立ち、IOCは今年4月、スポーツとAIに関する「オリンピックAIアジェンダ」を発表した。トーマス・バッハ会長は「オリンピックの独自性と(AIと)スポーツの関わりを確保するために新たな一歩を踏み出す」と述べ、五輪運営の適正化や競技の運営効率化などの5項目でAIを重点的に活用していく方針を示した。
具体的な施策の目玉が、世界中から注目を浴びるアスリートをSNSでの誹謗中傷被害やサイバー攻撃の脅威から守ることだった。パリ大会では期間中に約5億件のSNSでの投稿が見込まれ、アスリートが不安や恐怖を感じるようなメッセージが寄せられることが予想された。
そのためIOCはAIを使ったSNSの監視システムを導入した。35以上の世界主要言語でAIが自動的に、選手やコーチに対する侮蔑や差別、脅迫などが疑われる悪質なメッセージや画像、絵文字などを検知し、運営事業者に削除を求めるという対策だった。
この取り組みで世界中から寄せられた多くの心無い投稿が削除されたが、AI監視に限界があったことも露呈された。
性別騒動に揺れたボクシング女子競技。66キロ級準々決勝で、渦中にあったアルジェリアのイマネ・へリフ選手(25)と戦うことが決まったハンガリーのアンナルカ・ハモリ選手(23)は対戦を前に自身のソーシャル・メディアに、AIで生成したイラストを投稿した。
女性ボクサーが角のある大きな「雄の悪魔」と対峙するイラストで、この騒動を知っていれば、容易に女性ボクサーがハモリ選手、「雄の悪魔」がケリフ選手だと認識できた。
結局、アルジェリア側の抗議でこのイラストは削除された。しかし、膨大なメッセージを監視するのは限界があり、大会終了後もX(旧Twitter)ではまだこのイラストのコピーが出回っている。
SNSの誹謗中傷問題では、日本選手団にも尾県貢選手団長が大会中盤の8月2日に緊急声明を出して、「行き過ぎた内容」に法的措置も辞さない姿勢を示している。
オリンピアンは過去の大会でも、過度のプレッシャーや周囲の厳しい目によって自殺や精神疾患に追いやられるケースが報告されている。今後も、アスリートの保護を優先するIOCはこのSNS監視システムのさらなる改良が求められるだろう。
一方、パリ大会では、実際に街中に配備されたAI搭載の監視カメラが警備やテロ防止に活用された。フランス政府自身もこのシステムは、数百万人の群衆を管理して潜在的な危険を察知するために必要だとして、強力に推し進めた。
しかし、アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体は、監視カメラの大量配備は人権上問題のある顔認証システムの普及につながるとして反対を貫き、パリでは抗議運動も繰り広げた。
もし、オリンピックが人権弾圧などで問題がある国で開かれるのなら、AI警備は反対派の摘発などで政治利用される恐れがあり、大きな論議を巻き起こすに違いない。
4. 日本の金字塔を上回った中国のAIトレーニングシステム
パリ大会では男子高飛び込みで史上初の快挙が達成された。
17歳の玉井陸斗選手が決勝最後の6回目に、「5255B」とされる「後ろ宙返り2回半2回半ひねりえび型」の得意技から水しぶきをあげない「ノースプラッシュ」を決め、全選手最高の99.00点をたたき出したのだ。
結果は銀メダル。玉井選手はオリンピック飛び込みの歴史に名を刻んだ。
しかし、決勝記録で40点近くも玉井選手を上回って金メダルを獲得したのは、中国の第一人者、曹縁選手(29)だった。
曹選手にはとっておきの秘密兵器があった。世界一の実績を誇る中国の飛び込みチームは中国ハイテク大手、百度(バイドゥ)が開発したAI搭載のトレーニングシステムの支援を受け、技の改良につなげていた。
高飛び込みの選手はジャンプ台から入水までのわずか1.8秒の間に高度な技を繰り出す。スローモーションでなければ技の検証は難しいし、どこに課題があるのかの分析には時間がかかる。しかしAI搭載のこのシステムは選手の細部に及ぶ身体の動作や微妙なずれを瞬時に認識して、映像で示すことができる。
中国メディアのチャイナデイリーは百度研究所の上級エンジニアの言葉として「鋭い目と強い頭脳」を備えているシステムだと伝えている。
中国選手の「ノースプラッシュ」演技は、百度がさらに改良を加えるAI技術によって、選手が効率よく反復練習を徹底することで実現されていた。玉井選手が次期LA大会で中国の壁を打ち破るためには、彼らを上回るような「AIトレーニング」が必要かもしれない。
AIは将来の金メダルの「たまご」を見つけ出すことにも貢献できるようだ。英BBCは、AIを活用した若き才能の発掘システムが開発段階にあることを伝えている。
子どもたちに「走る」「ジャンプ」「握力」などの五つのテストを行ってもらい、持久力、敏捷性、反応時間などの能力を割り出す。そのデータをオリンピアンの幼少期の過去のデータと比較することで、将来のメダリスト候補を探し当てることが可能となる。
バッハ会長もAIアジェンダを発表する際に、「AIは世界中のあらゆる場所でアスリートやその才能を見極めるのに役立つ」と指摘。AIはさらに「多くのアスリートに、それぞれ個別に適したトレーニング方法」などへのアクセスを提供できる利点がある。
スポーツのAI活用は富める国と貧しい国のメダル獲得格差をさらに広げるとの懸念の声もあるが、才能ある若きアスリートを多く要するアフリカ諸国からも歓迎する声が出ている。
アフリカオリンピック委員会連合(ANOCA)のムスタファ・ベラフ会長は声明を出し、「われわれはAIを用いてスポーツを発展させるためのデジタル化を促進させ、アフリカの若者にさらなる発展の余地をもたらしたい。貧困と悲劇の連鎖を断ち切るための機会を与えたい」と語った。
2026年に首都ダカールでユースオリンピックが開かれるセネガルで今年3月、インテルはIOCと同国オリンピック委員会との協力で、将来のメダリスト候補を探す身体測定を行った。
使われたのはAI搭載のスマホアプリ。敏捷性や瞬発力、方向転換能力などの項目を測定するために1000人の子供たちが集まり、その生体科学データからうち40人の「天才」を見つけ出したという。
パリ・オリンピックではアフリカ諸国など多くのグローバルサウス諸国の選手たちが好成績を収めた。あらゆる競技で従来のスポーツ大国を凌駕する、グローバルサウス諸国のアスリートが現れてくるだろう。選手の育成や発掘においてもAI革命がスポーツ界全体に浸透する分水嶺の大会になるのかもしれない。
5. 2028年LA大会までの課題は?
大会期間の最終日となった8月11日早朝のことだった。その17日前の開会式でエッフェル塔の特設ステージから「愛の賛歌」を披露したカナダの歌手セリーヌ・ディオンさんがXで非難声明を出した。
パリから大西洋を隔てて遠く離れたアメリカのモンタナ州で大統領選挙の集会が行われ、共和党候補のドナルド・トランプ陣営がディオンさんのヒット曲「My Heart Will Go On」を無断使用したと告発する内容だった。ディオンさんがパリオリンピックで人気になったため、これに便乗する演出だったかもしれない。
このメッセージのアクセス数は1000万回以上。反響は大きく、さっそくSNS上では、「My Heart Will Go On」がテーマ曲の映画「タイタニック」の名シーンをパロディー化した、AIが作成したとみられるトランプ氏のイラストが出回った。
オリンピック期間中は世界中の耳目を集めるために、偽情報が瞬時に広がってしまう。悪用されれば影響はスケールを増して、社会に深刻な被害をもたらす。
パリ大会では、ウクライナ侵攻を続けるロシアがAIを用いたフェイク情報の拡散やサイバー攻撃をしかけるリスクも懸念された。
すでにウクライナ侵攻では、戦況を打開するためにウクライナ軍はAIを搭載した無人機を戦地に投入し始めている。
世界最大のスポーツの祭典は、国際社会の趨勢を左右するあらゆる諸問題と結びついて、情勢を複雑化、混迷化させる恐れもあることをパリ大会は示した。その節目の時に、スポーツ界のAI革命の波が訪れたのだ。
日本のあるスポーツテック企業のCEOは「近年、トップアスリートの体調に大きな影響を与える睡眠について、AIの機械学習の成果によって、月の満ち欠けによってその睡眠効果への影響に個人差があることがわかってきた。オリンピック競技における選手の強化策にAIを活用する動きはどんどん広がっていくことは間違いない。トップアスリートに用いたそのテクノロジーやノウハウを、人々の健康増進や社会全体のウェルビーイング(幸福)向上にどうつなげていくのかが問われている」と語った。
パリ・オリンピック閉会式では、ミッション・インポッシブルの最新作を撮影中のトム・クルーズさんが圧巻のパフォーマンスを行い、2028年LA大会の期待を膨らませた。
AI推進の本場で迎える次期オリンピックでは、世界の主要IT企業「GAFAM」が存在感を示すに違いない。パリ大会の水準をはるかに凌駕するオリンピックの場でのAI利用がもたらされ、メダル獲得や大会運営の効率化などで威力を発揮していくだろう。