パリで前回の夏季五輪が開かれた1924年の2年前のことだった。8月の暖かな日に、約2万人がパリ市内のパーシングスタジアムに集まった。米国チームを含む77人の選手が繰り広げる陸上競技を見るためだった。各国代表の入場行進があり、世界記録が生まれた。27人の記者が、世界中にニュースを届けた。
開会にあたって、38歳の女性が世界に向けて歓迎のあいさつをした――その女性の名は、アリス・ミリア。この大会を主催した「国際女子スポーツ連盟(IWSF)」(訳注=1921年発足、1936年に消滅した女子陸上競技の国際的な統括組織)の創設者だ。
この日の選手は、全員が女性だった。
「ここに、第1回女子五輪大会の開会を宣言する」とミリアは告げた。
この宣言には、今日に通じるものがあった。男性主体の本家のオリンピックは、パリ五輪の開催準備に忙しく、ミリアが「五輪」の名称を無断で使ったことへの批判以外は無視した。女子選手の参加を求める声が出始めていたのに、取り上げようともしなかった。
1924年のパリ五輪には、全3089人のうちのたった135人ながら、女子選手が参加した(訳注=近代五輪の始まりとなった1896年のアテネ大会では男子競技しかなかった)。女子競技は水泳やテニスなど数種目に限られ、まるで歓迎されざる存在のようだった。陸上やサッカー、ボート、自転車、体操などほとんどの競技から締め出されていた。
近代五輪の創始者であり、指導者であったフランスのピエール・ド・クーベルタンは、女子選手の参加に反対する姿勢を何年にもわたって鮮明にしていた。1912年には、女子の参加について「非現実的で、面白くも何ともない。だいたいが不格好だし、不適切だといっても過言ではない」とまでいい切っている。
1928年(訳注=女子陸上競技が初めて採用されたアムステルダム五輪の年)になってもその考えに変化はなく、「女子の五輪参加には今も断固反対だ」と明言している。
クーベルタンは1937年に亡くなったが、スポーツのあり方について先見の明を持っていたと今もたたえられている。しかし、この性差別問題に最終的に勝ったのはミリアの方だった。2024年夏のパリ五輪は、史上初めて参加選手が男女同数なのだ。
前回のパリ五輪から1世紀がたち、ミリアはやっと先駆者として認められるようになった。フランスでは伝記が発売され、劇場やテレビで新たに制作されたドキュメンタリーが公開された。ニースのフランス国立スポーツ博物館では、ミリアに焦点をあてた特別展が開かれている。
パリの新しい五輪競技場の外にある広場には、その名が付いた。そもそも、この競技場にはミリアの名を付ける計画があったが、命名権がスポーツ用品大手のアディダスに売却されて立ち消えになった。
「スポーツに女性が参加できるのも、五輪に女子が出られるのも、ミリアによるところが大きい」とソフィ・ダンジェは話す。新しく出た伝記「アリス・ミリア オリンピックの女性」の著者だ。「自分もスニーカーをはくたびに、彼女のことを考える」
とはいえ、今回のパリ五輪に出場する5千人余の女子選手のうち、アリス・ミリアという名前を聞いたことがあるのがごく一部だとしても不思議ではないだろう。
「象徴的なことに、五輪に占める彼女の位置はいまだに片隅にある。だから、闘いはまだ続く」とダンジェは語る。さらに、「男女の数が均等であることと、平等であることとは違う」と指摘。この闘いが、五輪にとどまらないことを視野に入れる。
「女性の体をコントロールしようとする人もいる」とアンヌ・セシル・ジャンルはいう。ドキュメンタリー映画「Alice Milliat:Les Incorrectes(不適格者のアリス・ミリア)」の製作者だ。
「ミリアが闘ったのは、自分たちの体を自分たちでコントロールするためだった。女性が自由になり、どうやって動き、どんな服装をするのかを自ら決めるようになることだ。これは普遍的な問題で、今も地球上の女性たちがそのために闘っている」
女性はほうびの拍手をすればよい
ミリアはフランスで生まれ(訳注=1884年、西部のナントで生誕)、国内で育った。18歳でロンドンに渡り、結婚。子守や速記者をしながら、ボートをこぐなどのスポーツを始めた。そんなことをする女性は、母国ではわずかしか見たことがなかった。
ところが、夫が急死した。ミリアに子どもはおらず、第1次世界大戦の最中にパリに戻った。ちょうど、新しい女性解放運動が始まろうとしていた。欧州中でゆっくりとだが、女性に選挙権が与えられるようになった。男性は戦場に行き、女性が働きに出た。そして、屋内外の競技場に集まるようになっていた。
1915年、ミリアは地元にあった女性のスポーツクラブの会長になった。1917年には、全国組織の共同設立者の一人になった。
「女性のスポーツは、男性のそれと同じように社会生活の一部である」と当時の彼女は述べている。
こうした女性の運動に、五輪を主催する側の反応は鈍かった。クーベルタンは、女性を除外するいくつかの理由をしょっちゅうあげつらった。参加人員と競技数が倍増するのは、組織運営の頭痛のタネになる。公衆の面前で女性が競い合うのはよくない。オリンピックは最高の選手たちが集う場で、女性はこれには該当しない……。
「私たちは、次に表現するようなことを実現すべく努力してきたし、これからもそうしなければならないと信じている。それは、国際主義に基づき、公正な手段により、芸術的な環境の高みの中で、厳粛かつ定期的に男性の運動能力を極めることだ。そのほうびとして、女性からの拍手がある」とクーベルタンは1912年に強調している。
これに対してミリアは、サッカーやラグビーを含め、男子と同じ競技を女子にも設けることを求めた。まず、陸上競技に力を入れた。古代のオリンピックを思い起こさせる華やかな競技だからだ。
全員が男性で構成されたクーベルタンの国際オリンピック委員会(IOC)は、1920年のアントワープ大会に向けて出されたこの提案を拒んだ。しかし、ミリアは前に進み続けた。
1921年に、陸上競技の世界組織(訳注=国際陸上競技連盟〈現・世界陸連〉。1912年のストックホルム五輪の際に設立された)の初代会長であるスウェーデン人のジークフリード・エドストレーム(IOCの有力者でもあった)は、モナコのモンテカルロで国際女子大会を開催した。
しかし、ミリアは納得できなかった。真剣な競技ではなく、写真撮影の場にすぎないと感じた。女性のスポーツを男性の統率下に置くのでは、男性が支配力を維持するための手段になってしまうと考えた。
だから、すみやかに冒頭のIWSFを設立し、各国で増えつつあった国内連盟を一つの傘下にまとめた。各競技会に技術的な共通基準をもたらし、記録の管理も一元化した。ミリアは、会長に任命された。定期的に会議が開かれ、詳細な議事録も作成された。
広報の大切さも、よく分かっていた。新聞、とくにフランスの新聞はミリアと女子スポーツについてひんぱんに報じた。ミリアは女子サッカーの試合の運営にもよく乗り出した。1920年に開催していた英マンチェスターでの試合には、2万5千人もの観客が詰めかけた。
そして、目を向けたのが五輪だった。クーベルタンが開く男子中心の五輪大会の合間に、4年ごとの女子大会を組み込み、同じ大会名を使おうとした。
「彼女にとって『五輪』は単なる用語にすぎなかった」と先の伝記作家ダンジェはいう。「なかなか機転のきく面白い人物で、こちらの望み通りに女子が五輪に参加できないのなら、独自の五輪大会を組織し続けると公言していた」
1926年のIWSF会合でこの問題を取り上げ、「女子の五輪参加は全面的なものでなければ受け入れられない。女子スポーツはそれ自体が確立されており、IOCが部分的に実施する実験であってはならない」との本人の発言が記録として残っている。「そのような限定的な参加は女子スポーツを高めることにはならない」
それでも、ミリアは「五輪」という言葉を使うのをやめることに同意した。取引に成功し、1928年のアムステルダム五輪で女子の陸上競技を初めて導入することを認めさせたのだった。10種目の実施を求めたが、5種目に削られた。ミリアは審判員に選ばれた。男性ばかりの中で、唯一の女性だった。
逆風もあった。女子が走れる最も長い距離となった800メートルでは、上位3人が世界記録を破った(訳注=人見絹枝が2位に入り、日本女子初の五輪メダリストになった)。しかし、ゴールインと同時に倒れこむ選手が相次ぎ、記者たちは「見るにたえない」と非難を込めて報じた。消耗が激しすぎ、女子には向かないと書き立てた。この種目が復活するのは1960年(訳注=ローマ大会)になってからだった。
「男性が倒れこんでも問題にならないのに、女子だとスキャンダルにされてしまった」と伝記作家のダンジェは眉をひそめる。
ミリアは記事や風刺漫画で厳しく非難されたが、ひるむことはなかった。「女子陸上競技世界大会」が正式名称となった女性の大会は1926年から4年ごとに続き、最後となった1934年のロンドン大会には300人以上が参加した。ニューヨーク・タイムズなどいくつかの報道機関は、引き続き「女子五輪」の名称を使った。
しかし、1930年代に入ると世界的な大恐慌が起きた。国際社会の歩みは第2次世界大戦に向けて転げ落ち、フェミニズムは退潮した。オリンピック本体も、1940年、1944年と続けて中止になった。
国際的なスポーツ組織は女性をより受け入れるようにはなっていたが、男性支配は変わらなかった。ミリアが恐れていた真綿で首を絞めるような支配は続いた。
IOCは1934年には女子を競技から完全に排除しようとした。表決結果は10対9で反対がかろうじて上回り、わずかな女子枠を何とか維持できた。女子競技の発展は、体操やアイススケートのような、より女性的とみなされる種目に向かう傾向があった。
五輪での男女平等は、ゆっくりとしか進まなかった。1960年のローマ大会では、選手の男女比率は10対1だった。1984年のロサンゼルス大会で4対1弱。2008年の北京大会でも女子選手は全体の40%強だった。
近年、IOCは男女間の平等に重きを置くようにはなっている。ただし、すべての種目でまったく同じというわけではない。今回のパリ五輪では、男子にしか向かないとされていた50キロ競歩の種目はなくなり、男女の混合リレーに代わった。しかし、男子の10種競技に対して女子は7種競技に出場するにとどまっている。
「女性が何と闘わなければならなかったのか、自分にはまったく分かっていなかった」と映画製作者のジャンルはいう。「1980年代生まれの私は闘わなかった。女子種目はすべて最初の五輪からあったと思っていた。女子のマラソンが1984年、ボクシングが2012年に始まったなんて知らなかった。いずれも私が生まれた後のことなのに」
ミリアはIWSFの会長をやめ、その組織自体も消滅した。世間から忘れ去られた彼女が亡くなったのは、1957年だった。隣人たちにもスポーツ界で果たした功績を知る人はいなかった、という研究者の報告もある。
しかし、その功績を掘り起こす歴史的な調査は続いている。女子のスポーツに貢献するための「アリス・ミリア財団」がフランスで2016年に設立された。彼女にちなんで名づけられた体育館や通りが、この数年でいくつもできた。そして、この夏のパリ五輪は、史上初めて男女の選手数が並ぶ。
ただし、手放しで喜ぶわけにはいかない、と映画製作者のジャンルは指摘する。「それ自体は素晴らしいことだし、ミリアも誇りに思うだろう。だが、女子選手の周りにいるコーチや審判、役員はほとんどがまだ男性なのだから」
世界を見れば、競技への参加や報酬をめぐる争いだけではなく、何を身にまとうかについても闘わねばならない女性がいる。
そんな状況を踏まえて、伝記作家のダンジェはこう話す。
「私たちはミリアの功績を知り、評価するべきだ。彼女は手本であり、この闘いはまだ続く」(抄訳、敬称略)
(John Branch)©2024 The New York Times
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