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LIFULLで住宅弱者支援に取り組む龔軼群さん、国籍差別や「異物感」を力に変えて

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インタビューに応じる龔軼群さん
インタビューに応じる龔軼群さん=2024年5月28日、東京都千代田区のライフル本社、渡辺志帆撮影

中国から来日、幼いころ感じた「異物感」

――龔(キョウ)さんは、5歳から日本で育って、「あらゆる人に平等の機会を」というのがモットーだそうですね。どんなきっかけでその使命を見つけるに至ったのか、原点を教えてください。

やっぱり自分の生い立ちが一番大きいと思います。上海で生まれて、1歳の時に父が日本に留学して、5歳の時に家族の呼び寄せで日本に来ました。自分が小さい時は気づかなかったんですが、自分が中国で生まれたことも、親が移民になったことも自分が選んだわけではないし、基本的に望んで日本に来たわけでもない、という環境がありました。

日本に来た当初は埼玉県川口市に住んでいました。30年前は今のように外国人の人たちはいなくて、小学校でも外国人は私しかいませんでした。そういう環境の中で、小さい頃に両親が電車内で中国語でしゃべったりすると、周りからじろじろ見られることがあって、なんて言えばいいのか、「異物感」みたいなものが小さい頃からずっとありました。

最初は日本語がしゃべれなかったので、保育園や小学校で疎外感やいじめは多少あったんですが、外交的な性格なので友達もできて、日本にどんどん同化していったんです。周りの友達も国籍が違うことに関係なく接してくれて、高校生くらいまでは「異物感」はさほど感じませんでした。

インタビューに応じる龔軼群さん
インタビューに応じる龔軼群さん=2024年5月28日、東京都千代田区のライフル本社、渡辺志帆撮影

海外研修で体験した「拒絶」とアイデンティティー・クライシス

ところが、高校3年の時にイギリスのオックスフォードに約2カ月半の海外研修に行った時に、出国口や入管手続き、ビザが必要だとかが、自分だけ違っていたんです。世界各国から集まった研修参加者たちの中にいた台湾の高校生から「私は(中国本土出身の)あなたとは会話したくない」と言われたりもしました。その人は、私の日本人の友達とはしゃべるのに、私とはしゃべってくれませんでした。その時、「なんなんだろう」とすごく悲しくて。

5歳から日本に暮らしてほぼ同化していたので、自分の親と違って中国のアイデンティティーをそんなに強く持っていなかったし、名乗らない限りは日本人として接してくれる人が多かったので、壁にぶつかることがそれまであまりなかったんですね。

初めて国際関係を含めて人種や国籍の問題で関わり合えない人がいることを実感した経験でした。この海外研修から、簡単に言うと「アイデンティティー・クライシス」に陥りました。日本人でもなく、中国人としての価値観やアイデンティティーも持たない自分は何者なんだろう、と自分を肯定することが難しくなりました。親にも相談できず、誰も理解者がいないと悩んだ「暗黒時代」でした。

今ではもう乗り越えて、「自分は自分でいい」と思えるんですが、悩んだ時期は結構長くて、それもあって大学3年の時に中国に「逆留学」して自分のルーツを探しに行くこともしました。

2009年、復旦大学留学時代、上海を訪ねてきて高校の友人(左)、香港出身のルームメイト(中央)とカフェにて
2009年、復旦大学留学時代、上海を訪ねてきて高校の友人(左)、香港出身のルームメイト(中央)とカフェにて=本人提供

留学中、ハーバード大の医学生の華僑の友人が「私はアメリカ人」と言い切るのを聞いて、「そう思える価値観があるんだ」と衝撃を受けたり、スペインの華僑の友人たちは夜の9時からサングリアを作り始めて「ルーツは中国だけど、めちゃくちゃスペイン人じゃん」と思ったり。いろんな人がいると分かって、ようやく少しずつ(自分自身を)許容し始めて、日本に帰って来ました。

帰って来て就職活動を始める前に、日本に帰化しようと思ったんです。でも県庁に手続きに行ったら、1年間留学していたために帰化に必要な在留期間の条件を欠くと却下されてしまいました。帰化できずに始めた就職活動中に、二つの差別を経験しました。

自分といとこが経験した二つの差別

一つ目は、就職エージェントに登録しようとしたら、「中国籍の方に紹介できる求人はございません」と断られたことです。中国籍を理由にした就職差別は「あるだろうな」と思っていたものの、実際にそれが目の前にあって、ショックでした。

二つ目は、いとこが日本の大学に留学してきて、手狭な学生寮を出るというので一緒に不動産会社めぐりをしたところ、「中国籍だから」「留学生だから」という理由で断られ続けたことです。

自分も就職差別され、いとこも入居差別される。私は日本語もネイティブレベルで話せて、日本のことも分かっている。いとこだって日本語能力検定1級を取った上で日本に来ていた。それなのに国籍を理由に就職できないし、家は借りられない。「なんて不条理なんだ」と思ったんです。大人になってからのそうした経験が、振り返ると子供のころから感じていた「異物感」の延長にありました。

生まれた場所や親、移住の選択は、自分では決められないものなのに、就職や住み替えの機会を削られ、ほかの人たちと同じように家や仕事を探せないことに、憤りを覚えました。

差別体験をバネに、留学生支援事業を提案して内定獲得

その入居差別の問題を、ライフル(当時ネクスト)の入社最終選考でプレゼンしました。

入居差別の問題ってなかなか顕在化しないんです。ネットで探しても、記事もあまりありませんでした。みんな、入居を断られても、恥ずかしいから言わないんですね。そこで当時住んでいた埼玉県川口市の駅周辺の不動産を片っ端から回って、なぜ外国籍の人たちは入居できないのか、理由を聞きました。「大家さんが認めないから」「トラブルがあるから」「言葉の問題があるから」などの答えが返ってきました。

当時は日本政府が「留学生30万人計画」を打ち出して留学生を増やそうとしていた時。でも留学生が増えても、いとこみたいに家が借りられなかったら問題だし、留学生への支援サービスが必要だと、事業案を社長にプレゼンしたところライフルに採用されました。

住宅弱者支援を自分の手で事業化するまでの曲折

――事業案は、社内のビジネスコンテストで優秀賞も取ったそうですね。

内定段階で社内の経営塾に入って、半年かけて留学生サポート事業のビジネスプランを作り、入社直後の4月の新規事業ビジネスコンテストで優秀賞をもらったんです。ただ、私は営業配属だったので、実際の事業を担当することはできず、社内で事業譲渡した形を取ったんですが、私が営業部門にいる4年の間につぶれてしまいました。

――それは悔しかったでしょうね。

当時は、「私は何のためにこの会社に入ったんだ」と落ち込みました。そのサポート事業はウェブサイト形式だったので、そこから、「営業職として売るだけでは事業は作れない、自分でものを作れるようになろう」と思い、一から学び直してアプリの開発をやったりしました。

インタビューに応じる龔軼群さん
インタビューに応じる龔軼群さん=2024年5月28日、東京都千代田区のライフル本社、渡辺志帆撮影

ちょうどその時、会社の国際事業部で「ボーダーレスの住まい探し」を目指した海外展開を進める動きがありました。入居差別の問題って、日本だけじゃなく、アメリカやヨーロッパに行った日本人にも起きています。結局、越境すると、その国での社会的地位や信用が低いから差別される。だから、その問題に対処する「ボーダーレスの住まい探しにしよう」というビジョンにとても共感して、これならリベンジできるかもしれないと思い、国際事業部で2年間、オーストラリアやドイツでのサイト立ち上げ事業に関わったんですが、またもや不運にも国際事業部がクローズすることになり、サイト作りをするメンバーは国内事業に戻ることになりました。

「もう会社を辞めよう」と思い詰めていた時に、以前の上司に「もう一回挑戦したら?」と声を掛けてもらい、国際事業部のクローズでぽっかり空いた1カ月を使って、同じ部のメンバーと、入居差別の問題をもう一度リサーチして、社内のビジネスコンテストにもう一度応募して、2度目の優秀賞をもらいました。

――優秀賞は2度目だったんですね。

2回目の優秀賞をもらって、やっと自分の手で入居差別に取り組む事業をできることになりました。たぶん、営業経験だけだったら何もできなかったと思うんです。サイト開発や、国際事業部での少数精鋭で何もないところからサイト立ち上げをする経験があったからこそ、今の「FRIENDLY DOOR」をどう作っていくか、不動産会社目線もユーザーが必要とすることも理解できて、満を持して作れたと思います。

2019年11月にローンチして、ありがたいことに今、ちゃんと売り上げも黒字化していますし、30人くらいのメンバーが社内兼業制度等を活用して協力してくれています。

住宅弱者ときちんと向き合う不動産業者を集める

――FRIENDLY DOORのビジネススキームはどういうものか教えてください。

「住宅弱者にきちんと対応します」と宣言するフレンドリーな不動産会社を集めたページです。ユーザーが問い合わせをすると、不動産会社側に(FRIENDLY DOORサービス利用への)課金がされます。

最終的にユーザーが探しているのは不動産会社ではなく「物件」なので、物件の可視化が一番やりたいことではあるんですが、問題は物件の数自体がとても少ないことです。

たとえば、「外国籍フレンドリー」など九つの住宅弱者カテゴリーの物件一覧を作ったんですが、物件数が全国で計1000件くらいしかないんです。不動産会社が物件登録時に「この物件は外国籍OK」「この物件は障害者OK」というように、チェックを入れないといけないからです。不動産会社がこうした入力の手間を好まないことを知っていたし、かつ可視化してもそもそも物件数が少ないなら、それよりはまず、ちゃんと対応してくれる不動産会社の担当者につながるようにしようと考えました。

インタビューに応じる龔軼群さん
インタビューに応じる龔軼群さん=2024年5月28日、東京都千代田区のライフル本社、渡辺志帆撮影

ですから、もともと住宅弱者OKか分からない物件だけど、ちゃんと収入があるから、などと不動産会社が大家さんとの間に入って交渉してくれて、その結果、フレンドリーな物件が増えていくということを目指しています。物件に至る手前のソリューション、つまり昔の私でいえば「異物」扱いをされずに、ちゃんと対応してもらえたという体験が大事だと思っています。 

なぜなら、不動産会社に「対応できない」と来店を断られる割合が、住宅弱者層では一般層の約10倍なんです。物件を見つける前の、そんなひどい状態を解消しなくちゃいけないと思っています。不動産会社には、ユーザーに親身に対応することを自ら選択して参画してもらっています。

――ローンチして数年で黒字化とはすごいですね。

私たちが取り組みを始めた2019年ごろは、「住宅弱者」という言葉がまだそんなに大きくありませんでした。PRの力も借りて、例えば高齢者になると家が借りにくくなるとか、住宅に関する社会課題があることを社会に問いかけることをしていくうちに、いろいろなところから取材をしてもらったり、社内でも協力してくれる人が増えたりして、参画する不動産会社も徐々に数が集まってきました。

ライフル社員と貧困問題に取り組むNPO代表との「二足のわらじ」

――龔(キョウ)さんは、途上国でのマイクロファイナンスや国内での難民支援を行う認定NPO法人「Living in Peace」にも長く関わっていますが、どのようにつながったのでしょうか

ライフルの同期がやっているNPOのスタディーツアーに参加したら「Living in Peace」で後に理事になる人に出会いました。

私は小学生の頃に見たドキュメンタリー番組がきっかけで貧困問題に関心を持ち、高校の時にフィリピンとメキシコのストリートチルドレンについて調査研究するなど、自分の生い立ちからも、誰も自分の生まれる場所や境遇を選べないんだと強く認識してきました。

入社まもない2011年に同期の誘いでフィリピンのスモーキーマウンテン(ゴミ山)にスタディーツアーに行き、その後、4年間はフィリピンの子どもたちの教育や貧困問題に取り組む認定NPO法人でボランティアをしていました。

2015年、ちょうどそのNPOではボランティアとしての立場に違和感を感じ、会社では自分が立案した事業がつぶれて悩んでいたときに、「Living in Peace」の説明会に参加したことがきっかけで、設立代表だった慎泰俊(シン・テジュン)氏を知りました。

慎氏は、朝鮮籍ゆえにパスポートがなく、日本政府から発行された再入国許可書だけで出入国していて、中国籍の自分以上に国境をまたぐのが大変だし、いろんなバイアスやスティグマで見られている状況がありながら、途上国でのマイクロファイナンスなどの活動を活発にしていることに、なんか「わあっ!」と思って。それで自分もジョインして、気づいたら代表理事になっていました(笑)。

――FRIENDLY DOOR事業と、認定NPO法人の代表理事の「二足のわらじ」で、歯車が大きく回り始めましたね。

そうですね。住宅弱者の事業がもう一度立ち上がるタイミングで、NPOではマイクロファイナンスで途上国に飛んだりしていたので、いろいろリンクしていたのはありますが、認定NPO法人の代表になったおかげでFRIENDLY DOOR事業を立ち上げる時にNPO界隈とつながりがたくさんできたので、点と点がつながっていくようでした。

志を同じくする居心地のいい仲間と

――すごいですね。でも、ものすごく多忙じゃないですか。

どうやって生きてるんですか、ってよく聞かれます(笑)。実は、両方やることで仕事の生産性がすごく上がりました。それまでライフルではいつも残業していたんですが、NPOの活動を始めたら、NPOの夜の会議が始まるまでに仕事を終わらせなきゃと、切り上げるようになりました。

「Living in Peace」は150人ほどのメンバー全員がプロボノで専従職員がいないので、ビジョンや事業計画、予算をつくるのも全員で議論しながらつくるんですが、それがとても良いんです。会社で落ち込むことがあっても、NPOの仕事をやるとスイッチが切り替わってリフレッシュできます。

逆にNPOで「ああ、大変」となった時も、本業の方で切り替えられる。両方やっているからこそ、人のネットワークもすごく広がるし、マインドが切り替えられることは、自分にとってとても良かったと思います。

2024年に認定NPO法人「Living in Peace」のメンバーとカンボジアのマイクロファイナンス機関を視察した龔軼群さん(前列右端)
2024年に認定NPO法人「Living in Peace」のメンバーとカンボジアのマイクロファイナンス機関を視察した龔軼群さん(前列右端)=本人提供

NPOをやっていると、会社や家族とはまた違うコミュニティーができます。同じ志を持っているけれど、育ってきた環境も価値観もすごく多様です。慎氏が創設者だったことも関係あると思うんですが、私を「異物感」というふうに捉える人がいなかったことが、私にとって居心地がよかったですね。ライフルもそうです。かつて取引先の不動産会社から「外国籍だから担当を変えてくれ」と言われたこともありましたが、上司は守ってくれました。両方の環境で人に恵まれたなと思います。

――「Living in Peace」と兼業していたからこそFRIENDLY DOORに生かせた施策もありますか。

私はライフルのCSR部門の立ち上げもやったんですが、NPO側にいるからこそ、そのつながりを生かしてライフルでイベントをしたり、寄付をしたりしています。

FRIENDLY DOORの中の「家族に頼れない若者」という住宅弱者カテゴリーも、すごくシナジーがあります。今でこそ、こども家庭庁ができたし話題にもなっていますが、2年前くらいは言葉も浸透していませんでした。でもNPOの活動で児童養護施設を訪れたりして、施設を出て行く子供たちに親の保証がない状況も分かっていたので「必要なサービス」と取り組めました。難民の住まいの問題も、「Living in Peace」の難民プロジェクトとリンクします。

龔軼群さん
龔軼群さん=2024年5月28日、東京都千代田区のライフル本社、渡辺志帆撮影

問題解決へ、ステークホルダーをつなぎ、相互補完する

――龔(キョウ)さんが、まだ十分ではないと感じていること、これからやりたいことは何ですか。

居住支援のニーズは、どんどん増えています。単身高齢者や子どもの孤立の問題が社会課題としてどんどん大きくなっていますし、労働力が減ってしまうから外国人を日本に呼ぶとなっても、入居できる物件が少ない。本当に大きな問題で、そこを解決しようとした時に、ライフルだけできることはすごく限られていると思うんです。

私がいくら頑張ってサイトを作ったとしても、その先の担い手である不動産会社さんや大家さん、場合によっては支援するNPOとの連携が必要です。そうしたステークホルダーをつないでいって、みんなで相互補完をしながら問題を解決していく座組を作っていきたいと思っています。

社会の中で、誰がその問題に取り組んだ方が最適かというすみ分けがきっとあると思うんです。私は不動産会社ネットワークを持っているライフルを活用して住宅弱者の問題を解決していきたいですし、Living in Peaceのプラットフォームを通じて、子どもたちの教育や貧困層へ金融アクセス、越境する人々の自立へのキャリアの支援をやっていきたい。最終的には、誰もが自分の人生を豊かにするための機会を平等に得られる社会を目指して、いろんなところでウロチョロしたいですね。