アヨン・アン(32)が、8歳のときだった。両親がバイオリンを買ってくれた。それを枕に置いて、いつも一緒に寝るほど気に入った。
住まいのあった韓国の平沢市内に2年後、楽器店ができた。すぐに常連となり、店主に次々と質問を浴びせた。「すごく迷惑だったのでは」とアンは振り返る。
10代で、バイオリン職人になろうと決めた。紆余曲折(うよきょくせつ)はあったものの、最後はイタリア北部にあるクレモナに落ち着いた。16世紀以降、名匠アントニオ・ストラディバリ(訳注=1640年代に生まれ、1737年没)らを生んだバイオリン作りの聖地だ。
国際的な賞を取り、この世界の期待の星となったアンは、今ではそこで自分の工房を持っている。
静かな石畳の通りに面したその工房は、自然光に包まれている。多くの本とともに目立つのは、板の山だ。楽器の製作に使うには、5年から10年も自然乾燥させねばならない。そうしなければ、反ってしまう。アンは2部屋続きの工房を、やはりバイオリン職人をしている夫のワンス・ハンとともに使っている。
最近のある月曜日。アンはおおいかぶさるようにして、二つの金属製の締め具で固定した20インチ(51センチ弱)の太い木材を加工していた。テコの力を利用し、体を押し下げながらのみで素材の表面を削っていく手元は揺るぎがなかった。
「スクロール」と呼ばれる先端の渦巻き状の部分を作る作業で、バイオリンやチェロの製作では終盤にあたる。この日没頭していたのは、バイオリンと同じような工程をたどるチェロの製作だった。
アンが作るようなバイオリンは、ストラディバリやジュゼッペ・ガルネリ(訳注=18世紀に活躍した弦楽器の名匠)の伝統に従って製作され、完成まで2カ月ほどかかる。1丁が16000~17000ユーロ(訳注=記事公開時点でおよそ265万~280万円ほど)。
「作ろうと思えば3週間で仕上げることもできる」とアン。「でも、そんなことはしたくない。買い求める人にとっては、とても大切なものなのだから」
アンがバイオリン職人になりたいと親に打ち明けたのは、17歳のときだった。米イリノイ州シカゴに渡り、郊外の米国人家庭に下宿しながら地元の高校に通って、英語をきちんと覚える。そして、シカゴ・バイオリン製作学校に入る――という計画だった。当時、韓国にはバイオリン作りを教える学校はなかった。
それを聞いた両親は動転した。ものになるかどうかも分からない進路を追い求めるために、そんな遠くに行くなんて。
「何日もハンガーストライキをした」とアンは語る。結局、両親が折れた。「空港で別れを告げると、両親は泣いた。でも、私はワクワクする気持ちを抑え切れなかった」
渡米して2年後。バイオリン作りを教える最も著名な学校の一つである国際バイオリン製作学校が、実はイタリアのクレモナにあることを知った。2011年、再び新天地に渡った。20歳だった。
クレモナは、「ルシエール」と呼ばれる弦楽器職人の中でも、歴史的に最も有名な人びとが輩出してきた。ストラディバリや「バイオリンの父」とされるアンドレア・アマティ(訳注=16世紀に活躍した名匠)がおり、ガルネリの一族がこれに加わる。
こうした名匠たちの音質を究極の目標として、今のクレモナでは160人から200人のバイオリン職人たちが切磋琢磨(せっさたくま)している。「伝統的な手法は地道に身に付けるしかない」とアンはその厳しさを表現する。
工房では、楽器に塗るニス用の顔料を入れた小さなつぼ類が棚や机に置かれている。研磨に使うガラスや鉱物の粉を入れた広口のびんもある。壁には、何十もの小刀やのみ、のこぎりがぶら下がっている。楽器をこすって年代感を出すときに使う歯科用の器具もあった。
クレモナには伝統の技法を守る職人組合(訳注=「クレモナ・バイオリン製作者協会」)があり、アンは最年少の会員だ。クレモナ式のバイオリン作りにこだわり、イタリアの文化にとけ込もうと、「アンナ・アリエッティ」という製作者としてのイタリア名も作った。指導をしてくれた先輩の助言があったからだ。
ルシエールにとって大切な瞬間の一つは、自分のラベルを楽器の内部に貼るときだ。キリスト教の儀式と同じように、「洗礼」と称されている。
アンは自分のラベルに年代感を出すため、古本の茶色くなったページの一片を使う。そこに自分のサインを彫った印を押す。
牛とウサギの皮をとかして混ぜる伝統的な手法でつくった自家製のニカワで、組み立てる前の楽器の内部に貼り付ける。こうすれば、はがれることはまずない。さらに、自分の韓国名も小さな焼きごてで内部に押印する。
そのあとで、表裏の板を接着させると楽器の本体ができあがる。バイオリンが形をとどめる限り、アンのイタリア名もともに内部にあり続けることになる。
「だから、私はバイオリン職人になりたかった」とアンは話す。「私のバイオリンを奏でる少なくとも一人の人間が、私のことを思い出してくれるから。100年たっても、200年たっても」(抄訳、敬称略)
(Valeriya Safronova)©2024 The New York Times
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