間違いなくウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の柔らかな美しい響きだった。2018年11月のウィーン楽友協会。リヒャルト・ワーグナーの楽劇「神々の黄昏(たそがれ)」の主要曲をフランツ・ウェルザーメストが指揮した。弦楽器の優しい音色。金管楽器が奏でる高揚感。全体としてのみごとな調和。19世紀の楽団発足(訳注=1842年とされる)から培ってきた独自の演奏スタイルが、存分に発揮されていた。
しかし、これほどの伝統が息づく楽団でも、才能ある次世代の演奏家を確保することは、容易ではなくなってきた。このため、自前の若手養成アカデミーが初めて開設されることになり(訳注=開設は18年夏)、第1期生を選抜するオーディションが19年の早い時期に始まる。楽団は、ザルツブルクやフランクフルト、ブダペスト、ニューヨークなどをめぐる多忙な演奏日程を抱えているが、それでも選抜審査は実施される。いかにアカデミーを重視しているかの表れでもある。
管弦楽団のアカデミーは、若手が音楽学校からプロに進む移行期を支えるだけでなく、その楽団の伝統を教え込む場ともなる。ウィーン・フィルと肩を並べる名門のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、すでに1972年にアカデミーを設けている。あのヘルベルト・フォン・カラヤンの提唱で始まり、今では団員の約30%がこのアカデミーの出身だ。最近では、上海交響楽団が14年にニューヨーク・フィルハーモニックと提携。中国の演奏家をオーケストラの人材として育成することに力を入れるようになった。
ウィーン・フィルの場合、アカデミーの規模は比較的小さいが、それだけ少数精鋭で臨む方針を立てている。受け入れるのは12人だけ。年齢は26歳まで。2年間の研修中は、関連費用が全額補助される。室内楽の伝統的なカリキュラムや個人指導、オーケストラに加わっての実技が待ち受けるだけではない。オーストリアの文化と歴史にも、密に接することになる。12人のうち少なくとも1人の枠が米国に与えられることが、楽団側の協力で決まっている(米東海岸の一流音楽学校との提携交渉が進められている)。
ウィーン・フィルの自主運営組織の幹部役員でもあるコントラバス奏者ミヒャエル・ブラーデラーは、楽団のオーディションを受けにくる最近の若手の力量低下を認める。それだけに、アカデミーの発足が質の向上につながることを期待する。
「ほとんどの場合、演奏技法はよいが、こちらが求めているものに欠ける」とブラーデラーは指摘する。つまるところは「個性」だ。「オペラでは、演奏が生きるか死ぬかは、個性の有無に左右されてしまう」
ウィーン・フィルは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団と団員の構成が重なる(訳注=後者の団員の中から、入ることを認められた者がウィーン・フィルを自主運営している)。かけもち演奏も多く、演奏回数は年に130にもなることがある。だから、限られた時間の中で新しいレパートリーを習得せねばならない。ウィーン・フィルは音楽総監督を置いていないので、次々と変わる指揮者のスタイルに合わせることも求められる。それでいて、純粋な管弦楽の曲目であっても、歌うかのようなつやのある音色を奏でる。とくに、弦楽器の評価は高い。
指揮者のウェルザーメストは、楽団の音楽的な独自性を「方言」に例える。国際化の時代にあっても、決して失われてはならないものという意味がこもる。今回のアカデミー発足の重要性については、他のオーケストラには置き換えられない個性を維持するための重要なステップであることを強調する。やはり弦楽器の美しい響きで知られるベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団を念頭に置いてのことだ。
「団員同士が、(訳注=方言のような)独自の言葉で話し合えるかどうかが問われることになる」
ウェルザーメストやリッカルド・ムーティ、ズービン・メータ、ヘルベルト・ブロムシュテットといったベテラン指揮者がウィーンで楽団を指揮するときは、アカデミーでも教えることになっている。さらに、アカデミーの研修生が、楽友協会で室内楽の演奏会を定期的に開く案が出ている。演奏会場にウィーン西方の有名なメルク修道院を加え、修道院の図書館などの文化遺産を訪ねることも検討されている。
「ウィーン・フィルの文化のルーツがいかに古いかを理解するには、実際に見て、触れて、においをかがないといけない」とブラーデラーは語る。「資料を読んだだけ、写真を見ただけでは、理解できはしない」
研修生には、課題とされている曲の楽譜や関連文書を楽団と楽友協会の資料室で調べることが推奨されている。楽団長で第1バイオリン奏者のダニエル・フロシャウアーは、シューベルトの交響曲第4番のリハーサルをしていたときに、楽譜の原本をつぶさに見たときのことが今も忘れられないでいる。
「クレッシェンド(訳注=「次第に強く」を指示する記号)がどう書き込まれていたかを見て、自分の演奏の仕方を変えたほどだった」
楽団は、発足以来の伝統を育みながら、独特のウィーン的な響きを創り上げてきた。ドイツ的なものとの違いは、どこからくるのか――ビブラートの賢明な用法。ウィンナ・ホルンやウィンナ・オーボエといった土地に根ざした伝統的な管楽器の使用。そんな要因もあるにはあるが、専門家の多くはよく次のようにその本質に迫ろうとする。
音楽評論家のエドゥアルト・ハンスリック(訳注=主に19世紀後半にウィーンで活躍)は、1860年に「男性的ではなく女性的」「厳格というよりはむしろ官能的」と記している。仏紙フィガロの専門家クリスティアン・メルランは近著「Le Philharmonique de Vienne. Biographie d'un Orchestre(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 あるオーケストラの伝記)」(訳注=2017年刊)で「このウィーン風スタイルは、ユダヤ、ドイツ、チェコ、ハンガリー、スラブ、バルカン半島の諸要素が融合した上に成り立っており、真に多文化のるつぼを形成している」と解説している。
1970年代までは、この「響きの文化」は容易に受け継がれてきた。団員のほとんどがウィーン国立音楽大学の出身で、楽団に入る前からそこで教える先輩団員の指導を受けていたからだ。しかし、その後は年を追うごとに、こうした地元の人材は減っていった。一家で代を継ぐことも少なくなった。今では、打楽器奏者のベンヤミン・シュミディンガー、クラリネット奏者のダニエル・オッテンザマー(ソリストとしても活躍)らの一握りがいるだけで、むしろ例外的な存在になっている。
しかも、この20年ほどの間に、団員は大幅に若返り、出身国の国際化も進んだ。
団員148人のうち50人以上が2000年から12年にかけて引退し、平均年齢は40歳になった。
外国出身の団員は、1974年の18%に対し、今は約30%を占めている。その過半数は中・東欧からで、楽団のルーツでもあるかつてのオーストリア・ハンガリー帝国の復活すら感じさせる。そればかりか、ロシアにも地域を広げている(バイオリン奏者のエカテリーナ・フロロワはロシア出身で、女性団員16人のうちの1人でもある)。ただし、海を遠く隔てた国となると、豪州とニュージーランドから3人が来ているに過ぎない。
アカデミーが動き出せば、後継者の募集地域は広がるだろう。研修生を楽団の仕事に組み込んで育成する道も、開けるようになる。ただし、楽団と活動をともにすることで生じるウィーン国立歌劇場での活動は、制限せざるをえない。最終目的は、楽団そのもののオーディションに受かること(そのためには、国立歌劇場のオーケストラピットで3年は実績を積まねばならない)、もしくは著名な管弦楽団に入ることで、これに向けて集中できる時間を十分に確保することが優先されるからだ。
指揮者のウェルザーメストは、楽団運営役員のブラーデラーや楽団長のフロシャウアーが、公私を問わずアカデミーの発足に尽力する様子を見てきた。「ウィーン・フィルに加わるよう求める最大限の呼びかけがなされた」とその活動を評価し、「楽団のウイルスを若者たちに感染させねばならない」とすら言う。
「私たちがどう演奏しているかを、ぜひ体験してもらいたい」とフロシャウアーは力を込める。「そうすれば、楽団としての無形の財産が、私たち自身も気づかぬうちに伝わると思う。そのまたとない機会を目指して、世界中の若者に集まってほしい」(抄訳)
(Rebecca Schmid)©2018 The New York Times
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