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ガザからNASAへ UNRWA学校で学んだ難民出身エンジニアが子どもたちに伝えたいこと

World Now 更新日: 公開日:
ロアイ・エルバシュウニさん
ロアイ・エルバシュウニさん=本人提供

UNRWA学校出身のNASAエンジニア

ロアイ・エルバシュウニさんは、イスラエルの建国宣言を受けて勃発した第1次中東戦争(1948年)で難民となった父親を持ち、ガザ地区で育った。UNRWAの規定で、パレスチナ難民の子どもや孫も難民のステータスを受け継ぎ、現在は約590万人が登録されている。

ロアイさんは幼少期から1998年まで、ガザ地区で暮らした。高校卒業後、アメリカの大学へ進学し、現在はアメリカ航空宇宙局(NASA)で働いている。3年前には、火星探査車「パーシビアランス」とともに火星に降り立った小型ヘリコプター「インジェニュイティ」の開発チームにエンジニアとして参加。地球以外の惑星で初めて飛行に成功するという世界的な快挙を成し遂げた。

その知らせはすぐさまガザ地区中をかけ巡った。学校からサッカー場、さらには道路にまで、ガザの至るところにロアイさんの写真が掲げられ、文字通り「天井のない監獄」に暮らす子どもたちのヒーローとなった。

ロアイ・エルバシュウニさん(前列右)とNASAの小型ヘリコプター「インジェニュイティ」の開発チーム
ロアイ・エルバシュウニさん(前列右)とNASAの小型ヘリコプター「インジェニュイティ」の開発チーム=本人提供

「ガザでは、『自分たちも彼みたいになるんだ』と言って、学校中に写真を飾ってくれていました。その当時、学校の先生と話したのですが、『あなたには、あなたが子どもたちにどれだけの影響を与えたのか想像もつかないでしょう。子どもたちにはそれまで希望がなかった。だけど、あなたは子どもたちに希望を与えたんです。多くの子どもたちが、ガザから出ていって、何かに取り組み、何かを成し遂げたあなたを見た。あなたは、子どもたちの夢のレベルを上げたんです』と言われたのです」

ガザの学校内や道路に掲げられたロアイ・エルバシュウニさんの写真と功績
ガザの学校内や道路に掲げられたロアイ・エルバシュウニさんの写真と功績=本人提供

UNRWAの学校に通った少年時代

今でこそ世界の宇宙開発をリードするNASAの一員だが、ロアイさんが通ったのはガザ地区の北部ベイトハヌンにあるUNRWA運営の小中学校だった。都市部では、UNRWA以外にも私立や公立の学校があるが、ベイトハヌンのような小規模な町にはUNRWAの学校しかない。

当時は1987年に起きた第1次インティファーダ(対イスラエルの民衆蜂起)の最中で、ガザ地区は、イスラエル軍によって軍事占領されていた。オスロ合意よりも前で、パレスチナ自治政府もなかった。

子どもがイスラエル兵に石を投げたことで、その子どもが通う学校そのものが数カ月にわたり休校にさせられることもあったそうだが、学校を休みにしたくて、石を投げていた子どももいたとロアイさんは振り返る。

ただ、当時の学校では、パレスチナの抵抗の象徴でもある白黒の織物クーフィーヤを巻いていくことも許されず、ロアイさんは服の下に隠して身につけていたと話す。

「小学校1年生の頃は教室すらなく、屋外ですごく寒かった。当時は、地理の教科書には『パレスチナ』という単語すら登場せず、今でもはっきり覚えているが、70ページや80ページが完全に抜け落ちていたり、単語が塗りつぶされていたりした。イスラエルが学校を閉鎖することもあったので、校長先生が教育を続けるために政治から切り離していた」

UNRWAの中学校を卒業したあとは、公立高校に進んだ。 パレスチナでは、高校卒業時に「タウジーヒ」と呼ばれる卒業試験を受け、成績次第で行ける大学や専攻が決まる。特に、ガザ地区では工学専攻は非常に人気が高く、高得点を求められるが、ロアイさんは、「正直、ガザで工学専攻に進むには成績が足りなかった」と話す。それでも工学を学びたかったため、英語を勉強して、なんとかアメリカ行きのビザを取得。しかし、大学進学後も奨学金などはなく、ガザ地区で医師として働いていた父親からの仕送りの他に、いくつものアルバイトを掛け持ちしながら大学に通ったという。

インタビューに応えるロアイ・エルバシュウニさん
インタビューに応えるロアイ・エルバシュウニさん=筆者撮影

セーフティーネットとしてのUNRWA

UNRWAの英語名は「United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East」で、その意味が示すように、Relief(救済)とWorks(雇用)を提供するための機関であり、”ハローワーク”のような側面を持つ。

UNRWAでは約3万人の職員が働いていて、99%が現地のパレスチナ人だ。学校の教師や診療所の医師だけでなく、清掃員なども「職員」に含まれる。

会社のようなものだが、UNRWAが就職先として最も人気なのがガザ地区だ。人口230万のガザ地区では若者の失業率は7割に達する。ロアイさんは、「みんな学校の先生になりたいから、ガザ地区では教職の競争が激しい。だから、教員の質もすごくよかった」と話す。

ただ、ロアイさん自身はUNRWAの存在について、「大ファンではない」と否定的な見方もしている。

「例えば、今UNRWAがなくなれば、(国際法上は)イスラエルが占領者としての責任をもって、パレスチナの人々に教育などの機会を提供しなければいけなくなります。そういう意味で、UNRWAは、結果的にイスラエルの占領を手助けしてきたとも言えるのです。UNRWAはまさにイスラエルとパレスチナの間にあるような存在です」

しかし、ガザ地区ではUNRWAが最大の「雇用者」であり、UNRWAがなくなれば、多くの人が武装勢力に加わりかねないと話す。

「私が思うに、UNRWAは『鎮痛剤』のようなものなんです。もし難民たちが全てを失い、貧困のどん底に突き落とされることになれば、彼らはもっと戦うようになる。状況が悪くなる一方だとわかっていれば、抵抗運動に参加する人はもっと増えるでしょう」

10月7日が変えた人生

2023年10月7日のハマスの攻撃は、イスラエルとガザ地区を取り巻く環境を大きく変えた。イスラエルでは約1200人が死亡し、230人以上が人質となった。11月末の戦闘休止の際に100人以上が解放されたが、2月2日現在も、130人以上が人質となっている。

「私は常に暴力には反対です。暴力が暴力に対しての特効薬だとは思わない。誰かがあなたを平手打ちすれば、あなたはその人を殴る。あなたがその人を殴ったら、その人はあなたを蹴る。これが繰り返されるだけです」

衛星放送局アルジャジーラによると、ガザ地区では1万人以上の子どもが死亡したとされるほか、国連児童基金(UNICEF)はほぼ全ての子どもに当たる120万人に、メンタルヘルスと心理社会的支援が必要だとしている。

ロアイ・エルバシュウニさんの写真を掲げるガザのサッカーチームの若者たち
ロアイ・エルバシュウニさんの写真を掲げるガザのサッカーチームの若者たち=本人提供

「子どもたちはすでに私のことなんか忘れているでしょう。何を考えたらいいのかもわからないと思います。子どもたちの多くの夢が破壊されました。今、子どもたちから聞こえてくるのは、『生きられたらいいな』と言った声です。さらには、痛みを感じ続けるよりも楽なので『死ねたらいいのに』という声すら聞きます」

ロアイ・エルバシュウニさんとNASAの小型ヘリコプター「インジェニュイティ」
ロアイ・エルバシュウニさんとNASAの小型ヘリコプター「インジェニュイティ」=本人提供

ロアイさんは現在、5年後の2029年の有人月探査を目指すNASAのミッション「アルテミス計画」で、月面着陸機「ブルームーン」のロケットエンジンの開発を担うシニア・マネージャーを務めている。

ガザ地区には今も両親が残っている。 ロアイさん自身も去年10月、20年ぶりにガザ地区に戻る予定にしていたが、衝突が始まったため帰郷はかなわなかった。次にいつガザ地区を訪れることができるのか、現地に何が残っているのか、今は誰にもわからない。

ガザで育ち、今では有人月探査という極めて困難なミッションに挑むロアイさんは、インタビューの最後にガザ地区の子どもたちに伝えたい言葉を残した。

「私はただ一つ、子どもたちには希望と夢を持ち続けて欲しいと思っています。何が起ころうと、彼らには常に、常にチャンスがあるはずです。どんな目標だろうと、どこかに必ずそれを成し遂げるための方法があるはずなんです。あとは、それを信じ続けるしかないんです。そうすれば、可能になるのです。私は常に前向きに考えています。悪いことでも、何か良いことのために起きていると考えるようにしています。どれだけ時間がかかっても、惑星に到達することだろうと、どんな夢だろうと、目標は達成できるものなんです」

筆者はこう思う

世界各国から拠出された資金で活動するUNRWAには、なぜ今回のようなことが起きたのか、組織として、一刻も早い徹底した原因究明と再発防止策が求められる。しかし、過酷という言葉では表現できないような悲惨な状況に置かれたガザ地区にいる子どもたちには何の責任もない。一人でも多くの子どもたちが希望を失わないようにするには、私たちは何ができるのか。少なくとも、支援を止めるということではないことだけは明白だ。