「フィン」と名付けられた2歳のオスのビーグル犬が、最後の一匹だった。米バージニア州カンバーランドにあるエンビーゴ社の繁殖・研究施設には、4千匹弱もの動物実験用ビーグル犬が悲惨な飼育環境に置かれていた。60日近くもかかったその救出作戦は、2022年9月にようやく終わった。
この施設への視察では、栄養不足や病気、けがをした犬が多く見つかり、安楽死させられた犬もいた。
あれから1年近く。救出された犬の多くは、新たな住まいを得て元気に過ごしている、と引き取り手の人々は語る。芝生の上で転げ回り、長い散歩を楽しみ、救出記念日のお祝いに誕生ケーキをなめもした。
「この子が最後の一匹だった。どんな気持ちだったのか、私には想像もつかない」。フィン(Fin:訳注=仏語では「終わり」を意味し、映画上映の最後によく出てくる)が保護されて数週間後に引き取ったスザンヌ・ブラウン・ペルティエ(60)は、感慨深げにこう話す。愛情を知らないまま流れた歳月を取り戻すため、「ありとあらゆる形のキスを鼻先にして、(訳注=励ましの)ビーグル・ラッパを吹いてあげている」
フィンは、スザンヌに新しい名前をもらった。正式には「Sir Biscuit of Barkingham(ほえどころ領のビスケット閣下)」。単に「ビスケット」でもよい。
ほかにも、何千匹もが2カ月の間に救出され、一時保護施設や救護団体、里親や養家(ようか)のもとに移った。これに先立ち、連邦当局は視察でいくつもの安全基準違反をこの施設で見つけていた。
収容されていたビーグル犬は腹をすかせ、病気にかかり、虐待され、中には死んでしまったケースもあった。生き残っていれば、実験室に送られた(訳注=ビーグル犬は個々の遺伝的差異が小さく、小型で飼育スペースをあまりとらない、多産などの理由から実験動物として世界中で使われている)。
2022年7月、連邦裁判所の判事が犬を別の場所に移す計画案を許可した。すると、いくつかの救護団体やボランティアたちが、犬の受け入れ先を探すために活発に動き始め、全米の注目を集めた。ニュースで知った英サセックス公爵夫人メーガンと夫のハリー王子は、「モンマ・ミーア」という名のビーグル犬を養子に迎えた。ニュージャージー州知事のフィル・マーフィーも、「モーティー」を養子にした。
ほかにも多くの人たちが、保護された犬たちを自宅に受け入れた。
アリ(29)とタイラーのトレント夫妻も、バージニア州クリスチャンズバーグの自宅にメスの「メープル」を迎え入れた。しかし、裏庭に出すと、がたがたと震え続けていた。ずっとケージの中に入っていたので、芝生を見たことがなかったのだ。ごほうびのおやつをもらったこともなかった。
「芝生をとてもこわがった」とアリ・トレントは当時を思い起こす。人間が近づくと、いつもすくんでいた。
「簡単なことは、何一つとしてなかった」とアリ。「ただ、忍耐と時間が必要だった」
■信頼を学ぶ
それでも、4歳になったメープルは、トレント夫妻と信頼関係を築くことができた。「いろんなことを覚えて、こんなにも成長してくれた」とアリは目を細める。好きなのは、日光浴とおなかをさすってもらうこと。それに、砕いた氷にむしゃぶりつくのも。何といっても、自分のベッドでゆったりと横になるのが大好きだ。
「彼女は信頼することを学んでいる。今は自分の日常を取り巻く人間はよい人ばかりで、こんなにも愛情を注いでくれていることも学んでいる」とアリは話す。
トレント夫妻がもともと飼っていたビーグル犬「ローラ」も、精神的な支えになってくれた。
2023年7月、ノースカロライナ州ウェークフォレストでビーグル犬の救出開始から1周年を祝う集会が開かれ、夫妻も加わった。そこでメープルは、自分が産んだ子どもたちのうちの数匹と再会した。いずれも母親より大きく育っており、キャンプサイトの芝の上でその引き取り手とともにみんなで記念写真に納まった。アリがフェイスブックに投稿したこの写真には、「エンビーゴの生存者」と書かれたバンダナをするメープルの姿があった。
そこから数百マイル(1マイル=約1.6キロ)北に離れたバージニア州アレクサンドリアに住むローレンとトレバーのケロッグ夫妻は、3歳のメスのビーグル犬を引き取り、「ネリー」と名付けた。「とても臆病な子だったから(訳注=英語で臆病な人を意味する“nervous Nellie”という表現がある)」とローレンは由来を説明する。ケロッグ夫妻は動物実験とエンビーゴ社に反対する活動に加わり、ネリーが救出されると24時間後には自宅に迎え入れた。
「一番助けが必要な犬を引き取りたかった」とローレンは話す。
エンビーゴ社(2021年に創薬・開発などに携わるイノティブ社に買収され、製薬やバイオテクノロジー業界向けの業務をしている)は2022年に声明を出し、ビーグル犬をこの施設から移すことに同意したことを明らかにした。社の公式サイトでは、繁殖させているのは「健康で、社会性の高い動物」で、それを研究用に売っていたといい、カンバーランドの施設は「2022年に閉鎖」とした。
■新しい暮らしへの適応
新たに迎え入れた「友」にとっては、「非常に厳しい移行期となった」とローレン・ケロッグは振り返る。まず、箱形の自分のハウスから出ようとしなかった。出ても、尻尾は下げっ放し。ワシントン首都圏のマンションの中で、わずかなことにもすぐにおびえた。「最初の数カ月は、こわがってばかりいなくてもよいことを教えるのに集中した」
徐々にネリーの緊張も解け、新しい家族の一員として一緒に長いすに座れるようになった。夫妻が裏庭付きの家に引っ越すと、「ネリーの進歩は目に見えて速くなった」とローレンは笑みをこぼす。
最近は、救出されて夫妻に引き取られたもう1匹のビーグル犬「ビーズリー」と歩くときは、尻尾を立ててうれしそうに振るようになった。
「ネリーはとても優しくて、とてもかわいい子。同じ境遇にあった犬たちが、それぞれ自分なりの方法で個性を発揮するようになったという話は、たくさん聞いている」とローレンはいう。
メーン州ノースヤーマスでも、先のビスケット閣下がケージの外に出ての新しい暮らしになじんでいた。引き取ったブラウン・ペルティエ夫妻がもともと飼っていたスパニエルの「アルバート」と「ウィンストン」の2匹が助けてくれた。
ビスケットが最初に一家のもとに来たときは、不安のあまりよだれをたらし、恐怖心から地面にペチャンコになって横たわってしまった。妻のスザンヌは、ビスケットが家中のあちこちで新しい感触のものに触れるたび、好奇心で足を持ち上げるのに気づいた。「小さなその足は、金属製のケージ以外触れたことがなかったから」。それに、「おもちゃが何なのかも知らなかった」。
そこで、(訳注=大きな垂れ耳が特徴の)イングリッシュ・スプリンガー・スパニエルのアルバート(5歳)が果敢さの手本となり、どうやって遊ぶかを示してくれた。今では、アルバートがすることはビスケットもすべてまねしたがるようになった。
「ビスケットは最高の友を得た」とおもちゃを共有している2匹の関係を、スザンヌはこう評する。
ビスケットの体重は、26ポンド(11.8キロ弱)。施設にいたときより5ポンド(2.3キロ弱)以上も増えた。長い散歩に耐える体力がつく一方で、まだ十分にひざの上で丸まれるサイズだ。「私のひざがお気に入りで、私もそんなひとときが大好き」とスザンヌは満面に笑みをたたえる。
保護犬を引き取ったのは初めてだった。それをビスケットは、表現力豊かな大きな茶色い目で毎日感謝してくれている、とスザンヌは断言する。「これが進むべき道だった」
■救出犬の親になるには
エンビーゴ社の施設からビーグル犬を助け出すのを手伝いながら、アダム・パラスカンドラは「自分も1匹引き取るべきだ」と自然に思うようになった。「米国人道協会」(訳注:動物福祉に重点を置く米NPO)の動物救出チームの担当幹部だ。
パラスカンドラは、妻のステファニー・プレトとともに生後12週のオスの子犬を迎え、「エンツォ」と名付けた。今はみんなでワシントン州ウィンロックに住んでいる。エンツォは、いまだに長いすにどうよじ登るのかを学んでいるが、とてもよくなつき、のんきな楽天家としての才能を開花させている。
どの犬も個性が違い、固有の背景を抱えている、とパラスカンドラは強調する。とくに、保護犬は能力もなつき方も違いが大きいと指摘する。「だから、犬を慣れさせるのに自分にどれほどの能力と忍耐力があるのか、人間の方がよく分かっていなければならない」。しかも、保護された犬には人間やほかの動物とはあまり接触がなかったという事情がある。
動物の保護や救出にあたる組織は、適切な新しい家庭を見つける経験を積んでいる。新たにペットとして引き取ろうという人は、何を期待してのことなのか、あらかじめ縁組をしてくれるところに相談した方がよい。そうすれば、最も適した生活ができるように支援してもらうこともできる、とパラスカンドラは説明し、こう続ける――。
子犬の方がどう育つかの予測が難しいことが多く、より柔軟な思考が求められる。成犬なら、基本的な個性と何が必要なのかを読み取りやすい。いずれにしても、新しい飼い主としては、引き取ってからの移行期とその間の成長ぶりを見るという楽しみを手にすることになる。
そこでカギを握るのは、何といっても忍耐だ。「犬に導いてもらった方がよい」とパラスカンドラは勧める。「何ができるのかは、犬が見せてくれる」(抄訳)
(Lauren McCarthy and Johnny Diaz)©2023 The New York Times
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