トムは、ひざ枕が大好き。それに、首筋をなでてもらえば、もう最高だ。
ティルダは、幼い息子にやさしく鼻をすり寄せていれば、とても幸せ。
チャヤは、優しく寄り添うのが好きなタイプではない。でも、機嫌がよければ、干し草の丸い束を大きなボールに見立て、相手を抜こうとドリブルするように転がすのが得意だ。
みんな、成牛だ。この牧場にいなければ、もうとっくに食肉処理場に送られていたに違いない。雄のトムは、体格が小さすぎる。雌のティルダは、あまりに病気が多い。雌のチャヤは、気性が荒すぎる。機械化が進んだ現代の牧場では、いずれもはみ出し者となり、悲しい運命が待っていたことだろう。
ここは、ブーテンラント牧場。ドイツ北西部のブットヤーディンゲン半島の一角にある。北海に面し、風の名所でもある。
もとは酪農場だったが、今は動物たちの老人ホームのようになっている。畜牛や豚、馬、ニワトリ、ガチョウが保護され、救助犬もいる。
どの動物も、人間のために飼われているのではない。この牧場にいる人々と平等な存在として、共存している。
「どうしたら、人それぞれに違う生き方があることを認め合えるのか、私たちはよく考えるべきだろう。動物たちをそっとしておくことにも、私たちはよく心すべきだろう」
この牧場を、パートナーのヤン・ゲルデスと営むカリン・ミュックは、こう話す。2人とも60歳代だ。
肉や乳製品に背を向けて牧場を営む発想は、ドイツでは革命的なことなのかもしれない。何しろ名物料理には、ジューシーな焼きソーセージや、フライングディスクのように大きなシュニッツェル(カツレツ)がある。しかも、午後のコーヒータイムには、たっぷり泡立てた生クリームとチーズケーキに舌鼓を打つお国柄なのだ。
もっとも、ドイツ人の肉の消費量は、減ってはいる。1人あたりでは、2020年は年間126ポンド(57キロ余)。1989年以来の低さだ。ビーガン(完全菜食主義者)も年々増え、今では200万人を数えるようになった。
肉を食べる人でも、ビーガン向けの食材を買い求める傾向が強まっている。家畜が置かれている過酷な環境を懸念して、肉製品を敬遠する人が増えている、とカッセル大学の農学教授ウルリヒ・ハムは指摘する。食料消費の動向を、何十年にもわたって研究してきた。
ブーテンラント牧場の人々は、それ以上の積極的な意味合いを込めて、動物を「商品」と見なす考えを捨てている。単に、道徳観に基づくだけではない。この地球の存続がかかっているとの思いがある。機械化され、工場化された農業は、温室効果ガスを大気に放ってもいるからだ。
「この地球を救おうと思うなら、動物を利用し、消費する文化と別れねばならない」
牧場の共同経営者ゲルデスは、コーヒーにオーツ麦から作ったミルクを足しながら、こう語った。「私たちには、決別するだけの経済力はある。でも、その前に、そうしようと思わなければダメだ」
ゲルデスは、この牧場を父親から引き継いだ。80年代には、この地域では有機農法の草分け的な存在となった。それでも、乳製品を作るのに、「牛を残虐に扱わねばならなかった」と振り返る。繰り返し人工授精で出産させた母牛は、生まれた子牛とはすぐに引き離された。
母親を求めて鳴く子牛の声を、数十年も聞いてきた。そんな罪悪感が積もり積もって、酪農をやめることにした。代わって、この牧場を人も動物もが「わが家」と呼べるようにする完全平等主義の実現を目指した。
動物たちは、いつでも100エーカー(40万平方メートル強)近い牧場内を散策できる。1841年に建てられた赤レンガ造りの家畜小屋から自由に出入りし、並木に導かれるように豊かな牧草地で草をはむ。決まった搾乳時間があるわけではない。帰路も、思うがままに、時間に縛られずに戻ってくる。
豚たちは、干し草の束の合間に深く埋もれるようにして、長い昼寝を楽しんでいる。
その1頭の雄のフレデリック。飼育小屋は、日影の多い中庭にある。泥で濁った池もあり、他の3頭の豚とガチョウたちと暮らしている。
生まれて間もなく、たくさんの子豚を積んだ輸送トラックから転げ落ちているのが見つかった。警察が運転手に連絡すると、戻って回収するのは面倒だと取り合わなかった。そこで、この牧場に預けられた。そうでなければ、生後数週間の子豚料理の材料になるところだった。
そのフレデリックは今、雌のローザ・マリーヒェンとよく鼻をくっつけ合わせながらいびきをかいている。こちらは、7年前に狭い囲いの肥育場の片隅にいたところを救出された。肺炎にかかり、ネズミにかまれた傷から細菌に感染していた。
あとの2頭は、雄のエーバーハルトと息子のウィンフリート。大学の研究室にいたが、実験に使われ、いずれも聴力と視力をほとんど失っていた。
実験動物には、共同経営者ミュックの特別な思い入れがある。自身が数週間、独房にぶち込まれた経験があるからだ。
85年のことだった。実験動物を研究施設から解放しようと押し入り、捕まった。テロ組織を結成したとの疑いをかけられた。その独房である日、ひらめいたことがあった。
「実験動物は、自分と同じ境遇にいる」――そう悟ったとミュックはいう。「太陽を見ることもない。友人とは切り離され、周りで何が起きているのかも分からない。そして、わが身の振り方を、自分では決めようもない」
それから20年ほど精神科の看護師として働き、ゲルデスと出会った。ちょうど牧場をやめて、牛ごと売り払おうとしていた。
その日。牛を運ぶ1台のトレーラーが来た。ところが、十数頭が入り切らなかった。
ゲルデスは、その牛たちを牧場に戻すことにした。ずっと、そっとしたままにしておこうと決心した。今の牧場が、誕生した瞬間だった。
問題は、維持費だった。それをまかなうため、2人は観光客向けの貸しアパートを経営し始めた。すると、客の多くが牧場への寄付を申し出てくれた。
その受け皿として、ブーテンラント牧場財団を設立することにした。それが、今の牧場運営の財政基盤になっている。
牧場関連のソーシャルメディアのチャンネルでは、あの「荒くれチャヤ」が画面狭しと遊び回っている。他の牛たちは、日なたでまどろむ。ガンのホープ(当初はガチョウと思われていた)は、ミュックのポケットに首を突っ込み、何かないか調べまくっている。
そんな映像が、寄付をしてくれる固定層を生んでいる。月々の獣医の治療費や2人の作業員の給与、管理費などを支払うのに十分な額が集まる。電気は、80年代の風力発電でまかなっている。
牛にあてた小包も届く。最近、ルーマニアで救出されたペキニーズ犬の雑種オーミックにも来るようになった。入っているのは、エサ入れやごほうび用のおやつなど。たいていは、短い手書きの手紙が同封されており、20ユーロ札が入っていることも多い。
スポンサーになれば、月2回開かれるグループツアーに応募することもできる。牧場内への立ち入りは、こうした事前の了解がない限り遠慮してもらっている。
「牛の老人ホームとも呼ばれているところなので」とミュック。「いとしいおばあさんに会いにいくのに、先にホームに連絡するのと同じこと」
この牧場の隣に住むヘンニング・ヘッデン(60)は、農家の2代目。といっても、農地は今は通常の酪農を営む若手に貸している(90頭を飼育している)。
そのヘッデンはブーテンラント牧場を理解するようになり、よくコーヒーを飲みにくる。よもやま話をして帰るが、「肉をやめるつもりはない」と自分の食生活は守っている。
酪農をしている多くの隣人は、自分たちの牛だって健康だし、手厚く扱われていると主張する。乳製品には大きな需要があり、これに応えながら、立派に両立させていると自負する。
中には、ブーテンラント牧場の哲学は、自分たちの暮らしを否定し、脅威でもあると考える人もいる。
「牛をやさしく抱きしめているだけならいいのだけれど」とミュックは眉を寄せる。「制度の批判になると、とたんに嫌な顔をされる」
一方で、飼育している動物を助けてほしいという緊急通報も、しょっちゅう入る。週に数十件もあり、待機リストはかなりの長さになっている。
そんなことはつゆ知らず、クリスティーナ・ベルニング(21)は7年前、勇気を振り絞って電話をかけてみた。食肉処理場に運ばれることになった父親の酪農場の雌牛エリーを預かってもらえないかと尋ねたのだった。
ミュックは当初、「もう場所がない」と断った。でも、少女の心がこもった訴えに根負けした。エリーは、翌15年に越してきた。
ベルニングは21年6月、家族のペットになっていた別の雌牛リリーを牧場に連れてきた。運搬車で北へ5時間。牛舎に入ったリリーが、毛づくろい用のブラシで背中をこすり始めると、ベルニングの目から涙がこぼれた。ホッとすると同時に、うれしさがこみ上げてきた。
その涙は2日後、今度は悲しみで止まらなくなった。13歳になったエリーが突然倒れ、安楽死させることになった。ベルニングは最後の夜をともに過ごし、ずっとなで続けて別れを告げた。
「そうしてあげることができて、とてもよかった」とベルニングはいう。「エリーにとっても、私にとっても、とても大事なことだった」(抄訳)
(Melissa Eddy) ©2021 The New York Times
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