枕カバーから出されたカモノハシは、まっすぐ水辺に向かった。
じっと見ていたサラ・メイは、つやつやしたその毛並みと滑らかな動きに改めて驚かされた。スリンキー(訳注=バネ状のおもちゃ)が、はっているようにも見えた。
水面(みなも)の穏やかな池に入ると、水に潜り、すぐに姿を消した。
この瞬間が来ることは、もう何カ月も前から分かっていた。でも、その場に居合わせてみると、思ってもみなかったほどの深い感動に包まれた。
このカモノハシが、枕カバーに入れられてティドビンビラ自然保護区に着いたのは、2020年4月末のことだった。豪州の首都キャンベラから車で45分。一時避難をしていたシドニーの動物園から、他の2匹とともに4カ月ぶりに帰ってきた。冷たい風が吹き、雨が降っていた。前年暮れに避難したときとは、まさに正反対の天候だった。
避難当時の保護区は、酷暑でカラカラに乾いていた。しかも、山火事が迫っていた。
保護区の野生動物担当班を率いるメイは、濃い煙の中で同僚たちと苦闘していた。自分の肺を守るために、マスクをせねばならなかった。目は充血し、ヒリヒリしていた。この世も終わりかというような厳しい状況だった。「みんなの頭は、山火事のことでいっぱいだった」
保護区には、絶滅の危機にある珍しい豪州固有の野生動物が数多くすんでいる。なんとか救いたいという思いで、みんな必死だった。
保護区は、ユーカリの林に囲まれ、大きな谷はエミューやカンガルーの王国となっている。池を抱えた広い湿地帯もある。フェンスで厳重に保護され、「聖域」と呼ばれている。
ところが、その名に値しない状況が、19年12月に生じた。動物は、干上がりかけてぬかるみのようになった池の泥水を飲み、(訳注=酷暑にやられずに残っていた)食べ物をあさっていた。泳ごうとした水鳥は、メイが見ているうちに歩くはめになった。池は、鳥の足よりも浅くなってしまっていた。周りには、ひび割れた地面が広がっていた。
あと数日か数週間で、水がなくなりそうだった。
池にすむカモノハシが危ないと見た保護区側は、一時避難を受け入れてもらえるかどうか、シドニーのタロンガ動物園に尋ねた。
この動物園では、保護が不可欠な豪州の固有種の一つとしてカモノハシを位置づけており、同じような問い合わせに対応していた。干上がり始めた小川や池で、カモノハシがもがく姿を見たという情報が、別の保護区や農民、地主から殺到した。「まるで洪水のように」と園の野生生物保護担当者フィービー・マアーは振り返る。しかし、収容できる場所は限られていた。
それでも、園は救助隊をティドビンビラ保護区に送り込んでくれた。カモノハシは夜行性なので、保護区側との合同救助活動は暗がりの中で進められた。
煙が濃く、息が苦しい。懐中電灯の明かりは、(訳注=映画「スター・ウォーズ」の)ライトセーバーのように見える――何時間もかけて、7匹を捕獲することができた。「残るカモノハシの命は、運に任せるしかなかった」とメイは語る。
その後の数週間、保護区側は火が迫る中で他の動物の避難に追われた。
最終的にはコアラ6匹、絶滅の恐れがある豪固有種の北コロボリーヒキガエルモドキ1千匹近く、極めて希少なオグロイワワラビー22匹(野生ではほぼ絶滅状態にあり、生息数を復活させる繁殖計画に欠かせない存在)、絶滅危惧種のアカフサオネズミカンガルー26匹(豪本土ではすでに絶滅したが、再定着の試みがなされている)が保護された。
幸いなことに、ティドビンビラ保護区は延焼を免れた。
一方のタロンガ動物園では、避難してきたカモノハシが、野生の状態を保てるように気をつけていた。人間との接触を限定し、すみかは自分で掘らせ、エサも自分で捕まえさせた。近いうちに避難数が再び増えても対応できるよう、受け入れ態勢の拡充計画も立て始めた(気候変動の予測は、そうなる可能性を示している)。
そうこうしているうちに、雨が降るようになった。ところが、いきなり豪雨になり、ティドビンビラ保護区の「聖域」の高地では、鉄砲水でフェンスがズタズタにされてしまうほどだった。
ともかく、池はよみがえった。保護区では水質を検査し、山火事の延焼を食い止めるのに使われた化学剤で汚染されていないか調べた。エサが十分にあるかも確認した。その上で、カモノハシの第一陣3匹の帰還日が決まった。うまく復帰できるかどうかを見る必要もあった。
その当日。第一陣は、ワゴン車で運ばれてきた。獣医師の診察が終わると、避難中に世話をしていた動物園の飼育員が水をいっぱいにたたえた池に向かってカモノハシを放った。水辺には、避難したときにはほとんどなかった緑が復活していた。放つ直前には雨と風がやみ、雲の切れ間から日差しが水面に差し込んだ。
戻ってきたカモノハシは、これまでよりぽっちゃりしていて、他にもこれまでと異なるところがあった。体に追跡装置が埋め込まれていた。
カモノハシの行動形態をもっと知る必要がある。生息環境が変わると、どう対応するのか。そもそも、豪州の生態系の中での適応実態はどうなのか(実は、ほとんど分かっていない)――そんなことを解明する狙いがある、とこれから調査にあたるニューサウスウェールズ大学の研究員ギラド・ビノは説明する。
カモノハシの姿が目に入らなくても、「うまくやっているのだろう」と思うかもしれない。ところが、ビノのこれまでの研究結果は、そうではないことを示唆している。水資源の過剰な使用や温暖化による干ばつで、その生存に関わる問題が浮かび上がっているからだ。歴史的に裏付けられているかつての生息域は、40%も縮小してしまった。温暖化が進めば、この傾向はさらに強まるだろう。
同じ大学の研究員ターニール・ホークは最近、カモノハシとの出合いが記されている文献を、1760年までさかのぼって2万6千点も分析した。新聞記事や探検家の日誌、自然史の書籍などだ。
そこに描かれている光景は、現代の研究者の感覚からすれば、別世界のことのように映るはずだ。
ビノにとってとくに衝撃的だったのは、カモノハシを何十匹も見つけたことと撃ち殺したことが、同じように無造作に書かれていたことだった。さらに、「有象無象(うぞうむぞう)の群れ」など、「自分と同じ世代のカモノハシ研究者なら、決して使わない表現もあった」と首を振る。
ティドビンビラ保護区から避難していたカモノハシ7匹の残る4匹も、翌々月に里帰りを果たした。
「みんな池のあたりを楽しそうに動き回っているみたい」。先のタロンガ動物園のマアーは、追跡装置のデータをもとにこう報告している。
カモノハシが池に消えていくのを見た担当者たちは、胸をなで下ろしている。過酷な夏だっただけに、今では奇跡のような気にもなる。
しかし、メイの脳裏には、前年暮れのあの絶望的な日々のことが焼き付いている。オレンジ色になった空気。乾燥してポキポキと折れる茂み……。
今回は、うれしい結末になった。それでも、もっと大きな危険が潜んでいることを忘れてはならない、とビノは警告する。
干上がりかけた池からカモノハシを救出するのは(訳注=対症療法に過ぎず)、絶滅を防ぐための「真の解決策の実現とまではいえない」からだ。
しかし、このままでは、さらに多くの救出活動が必要となるのは目に見えている。悔しいことに、ビノはそう考えざるを得ない。(抄訳)
(David Maurice Smith and Brooke Jarvis)©2020 The New York Times
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