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特別リポート:地下司令部の文書でたどる、ロシア軍敗走までの日々

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ロシア軍が司令部として使っていた自動車修理工場
10月26日、ロシア軍の兵士たちは数週間前にこの町から逃げ去った。だが、その痕跡は至る所に残っていた。写真はウクライナ東部バラクレヤを占拠していたロシア軍が司令部として使っていた自動車修理工場。上空より7日撮影(2022年 ロイター/Zohra Bensemra)

ロシア軍の内部文書が語る真実=ロイター提供

ウクライナ東部、ハリコフの南方90キロにある川沿いの小さな町バラクレヤ。コンクリートの階段を下り、ロシア軍が慌ただしく放棄した司令部の地下室に入った。「司令部」と書かれた鉄製のドアの向こうは、湿った臭いのする地下壕だった。焼却炉には書類が押し込まれ、その一部は焦げていた。他の書類は床全体に散らばっていた。

花柄をあしらったノートに、氏名不詳の参謀将校が、兵士の漫画と、望郷の思いを書き残していた。91ページにわたる手書きのノートには、その他の情報も記録されていた。ロシア軍情報部隊の位置情報、司令官たちからの電話の記録、戦闘の推移や戦死者、破壊された装備の詳細な記録──。士気低下と軍紀の乱れに関する記述もあった。

地下壕からは、全部で数千ページに及ぶ文書が発見され、ロイターはそのうち1000ページ以上を閲覧した。ロシア軍内部の仕組みが詳述され、ロシアのプーチン大統領が戦場で喫した最も手痛い敗北の1つ、つまり9月のウクライナ北東部からの混乱に満ちた撤退へと至る一連の出来事について、新たな事実が浮かび上がってきた。

敗走に至るまでの数週間、ロシア軍は必死になって偵察と電子戦に取り組んでいた。市販のドローン(無人機)を飛ばしていたが、操縦するのはろくに訓練も受けていない兵士たちだった。ウクライナ側の通信を妨害する装置には故障が頻発した。8月末の時点で、戦死や脱走、そして戦闘のストレスのために戦力は低下。兵力の約6分の1に相当する2部隊では、本来の戦力の2割程度しか運用できなくなっていた。

残された文書からは、ウクライナ軍部隊の能力向上も読み取れた。黒海沿岸の南部戦線でロシアが強い反撃にさらされている現在、開戦から8カ月間が経過したこの戦争の今後の展開について示唆を与えてくれるものだ。バラクレヤ周辺のロシア軍は、敗走前の数週間、最近米国が提供した高機動ロケット砲「ハイマース」による猛攻撃を受けるようになっていた。精密攻撃が可能な同ロケット砲は、ロシア軍の指揮拠点に繰り返し打撃を与えた。

3カ月にわたりバラクレヤ駐屯部隊で従軍したロシア人将校は、ロイターの取材に、占領部隊を覆っていた恐怖感について詳しく語った。戦友の1人は9月初め、近隣の村に置かれた指揮拠点でウクライナ軍の攻撃に遭い、出血多量により死亡したという。

「ルーレットのようなものだ。当たるときもあれば外れるときもある。どこに着弾するかは分からない」

この将校は、記事中では自分のことは軍における自らのコールサイン「プラカート・ジュニア・888」と記述するよう求めた。

本記事のためにロシア政府に問い合わせをしたところ、国防省に転送されたが、同省からのコメントは得られなかった。ロシアはこれまで、ロシア軍は戦争に必要なものをすべてそろえているとしてきた。

地下壕にあった文書は、バラクレヤを拠点とするロシア軍部隊の指揮官としてイワン・ポポフ大佐の名を挙げている。ポポフ大佐と配下の上級士官の多くは、ロシア海軍バルト艦隊沿岸部隊第11軍団の所属だ。ロシア軍の機関紙は2017年に、ポポフ大佐のプロフィールを掲載している。それによると、ポポフ大佐はチェチェンでの紛争や、2008年の旧ソ連圏のジョージアに対する侵攻に従軍したという。ポポフ大佐は部下と一緒にジョギングを楽しみ、部下の将校たちの誕生日を忘れることはなく、「成功を達成する意欲に満ちている」という。ポポフ大佐にコメントを求めるメッセージを送ったが、回答は得られなかった。大佐の妻はロイターに対し、夫はウクライナ東部で部隊を指揮していると語った。

バラクレヤ駐屯部隊には、現地の民間人の監視を担当する指揮官がいた。文書では「V・グラニット」隊長とされているが、これは仮名とみられる。拘束されていた住民6人とウクライナ当局者によれば、この指揮官は少なくとも1カ所の尋問拠点を監督し、そこでは住民に対する暴行や電気ショックによる尋問が行われていたという。

ロイターは、文書に位置情報の記載があった、放棄されたウクライナ北東部のロシア軍の拠点5カ所を訪れることで、これらの文書の信ぴょう性を確認した。5カ所全てで、ロシア軍部隊がその場所に駐留していたことを地元住民が証言した。さらにロイターの記者は、バラクレヤ駐屯部隊に所属していた兵士5人に取材したほか、文書の細部とロシア現役軍人1人がつけていた同時期の記録とを照合した。

<ロシア軍占拠下の町>

田園地帯の村々に囲まれ、低層集合住宅の立ち並ぶ静かなバラクレヤの町がロシア軍部隊に占拠されたのは、3月のことだった。南にはロシア支配下にあるドンバス地方が広がり、北にはウクライナ軍の拠点であるハリコフ市がある。

ロシア軍兵士は、町外れにある古びた自動車修理工場を占拠。ここがバラクレヤと周辺の村や農場数十カ所を支配する司令部となった。ロイターが遺棄された文書を発見したのは、この工場の地下室だった。

ロシア軍の到来前にこの工場を管理していた地元住民のボロディミル・リョボチキンさんによれば、この司令部の上空ではロシア軍のヘリコプターやドローンがひっきりなしに旋回していた。敷地内には、自走多連装ロケット砲「GRAD」数十台をはじめとする軍用車両が駐車していたという。

記者は司令室内で、デスクが長方形に並べられているのを見た。各デスクには、戦闘調整や電子戦、情報、無人機といった部隊内の担当を示す赤い名札が貼られていた。文書に残されていた名簿によれば、民間人担当の指揮官も含め、各班の指揮官はこの場所で毎日会議を開いていた。ロイターは、この会議に参加した将校を少なくとも11人特定している。そのうちポポフ大佐を含む5人にコメントを要請したが、回答は得られなかった。それ以外の将校には連絡を取ることができなかった。

兵員名簿によれば、ロシア支配下にあるウクライナ領ルガンスク州から徴集された住民も、ロシアの第11軍団所属の兵士らと共に戦闘に参加した。兵士たちは基地の壁に落書きし、「我々が撤退すればウクライナはナチスの支配下に落ちる」と警告するビラを掲示していた。彼らが所持していたウクライナの地図は、旧ソ連時代のものだった。「喫煙禁止、ゴミを散らかすな」と兵士を戒めるポスターもあった。

氏名不詳の参謀将校がつけていたノートには、近隣地域に分散配置されたロシア軍の情報部隊や他部隊の位置情報が含まれていた。部隊の1つはバラクレヤの幼稚園を占拠していた。

工場の元管理者であるリョボチキンさんによれば、ロシア軍の撤退後、ウクライナの調査団が何度もこの基地を訪れた。地雷処理班は今も作業を続けている。「あらゆる場所に地雷が仕掛けられていた。彼らは完全に守りに入っていた」と、リョボチキンさんは振り返った。

この基地は、捕虜にしたウクライナ将兵の収容施設としても使われていた。ロイターの取材に応じた退役軍人によれば、フードを被せられ、殴打されて監房に放り込まれた。複数の収容者と共に、そこで6日間を過ごしたという。

バラクレヤ警察署に拘束された者もいた。男性2人(1人は消防士、もう1人は救急部門の監察官)によれば、見張りの兵士はこん棒で彼らを殴打し、電気ショックを与えたという。ロシア兵は監察官に、ハリコフにいる上司との通話について繰り返し尋問した。ウクライナ人のロシア軍協力者のリストを作成したという容疑を掛けられたが、監察官はこれを否認したという。消防士の男性は、武器の隠匿や抵抗グループの組織という容疑を追及されたが、やはり容疑を否認したという。

救急部門のロジスティクス調整を担当していたアルビナ・ストリレッツさん(33)は、彼女や他の女性たちが拘束されたのは、単に「ウクライナ側」だったからだと説明する。

「男性たちが激しく殴打されるのが聞こえた。ある時など、ロシア兵が『遺体袋を持ってこい』というのを聞いた」と、ストリレッツさんは語る。

「別の時には、女性が上階でレイプされ、何時間も泣き叫ぶのが聞こえた」。ストリレッツさんは、女性の叫び声を聞かなくて済むように、監房のトイレを壊して水が流れ続けるようにしたという。

ロシア政府と国防省は、バラクレヤで発生した事件に関する質問に回答しなかった。ロシアはこれまで、ロシア軍が市民を標的にすることはないとしている。

ハリコフの警察は、同地域で新たに解放された町村で、ウクライナ側の調査団が拷問部屋を22カ所発見したと明らかにしている。「拘束された人数は数え切れない。数百人にはなるだろう。だが、あらゆる犯罪を特定し、必ず責任者を見つける」と、ハリコフ地域警察を指揮するボロディミル・チモシュコ将軍は言う。

警察署の向かいにある事務所では、拘束者の親族が身内を解放するようロシア側の「V・グラニット」隊長に嘆願することもあった。

数日間拘束された学校長のテチアナ・トフストコラさん(57)によれば、夫が彼女の拘束に関する情報を手に入れようとしても追い返されたという。ロイターの取材に応じた拘束経験者や家族の中で、グラニット隊長の気持ちを変えさせることに成功した者はいなかった。

占領中、住民監視のかなりの部分は、ウクライナからの分離独立を掲げるルガンスク州から来た部隊に委ねられた。文書からは、この部隊が寄せ集めの集団で、ロシア軍部隊に比べて装備もはるかに貧弱だったことが分かった。ルガンスク部隊の伍長の1人は64歳だった。衛生兵の記録によれば、別の兵士は、「モシン・ナガン」ライフルの薬室が破裂する事故で指の手当を受けている。「モシン・ナガン」は19世紀後半に開発され、数十年前に生産中止になった銃である。

バラクレヤの地下壕で見つかったリストによれば、階級が軍曹の場合、ロシア軍であれば通常月額20万2084ルーブル(約48万円)の給与に加えて賞与が支給されるが、ルガンスクの分離独立派部隊の軍曹は、9万1200ルーブル(約22万円)しか支給されない。ルガンスクの火炎放射器中隊の隊長は、ある文書の中で、部下のうち8人に前科があり、そのうち1人は強姦と性的暴行によるものだと記録している。

<僅差での勝利>

ロイターが閲覧した文書によると、ロシア軍がウクライナ軍による大規模な反攻に初めて直面したのは、この地域を制圧してから4カ月経った7月19日のことだった。

その日の朝に地下壕で行われた定例の会議で、司令官のポポフ大佐に提出された報告書に変わった点はなかった。前夜は比較的動きがなく、敵の配置は変わっていなかった。その日の予定は、ウクライナ軍に向けて前から計画していた砲火攻撃を行うことだった。

だが昼過ぎになると、ウクライナ兵の隊列が、戦車の支援を受けながら味方の集中砲火に隠れて前進し、フラコベのロシア軍前線部隊を攻撃してきた。フラコベは、バラクレヤに駐留するロシア軍部隊が制圧していた地域の北西部にある村だ。

ロシア軍の第9自動車化狙撃連隊に所属していた部隊は、フラコベにあるコンクリート製の大穀物倉庫に立てこもった。ロシア兵らは、建物の屋根沿いに銃を配置した。10月に同施設を訪れたロイター記者は、兵士らが穀物用ベルトコンベアーの上で寝ていた痕跡を確認した。

午後3時前に、フラコベの前線にいたロシア兵が、バラクレヤにいる指揮官らに無線で連絡を取った。この兵士は、陣地が攻め込まれており、撤退する必要があると伝えた。また撤退の際に、その陣地を砲撃して破壊するよう要請した。その後、連絡は途絶えた。

バラクレヤの地下壕にいた氏名不詳の参謀将校は、ノートに「弾薬が底を尽きそうだ」と残している。

またこのノートには、ロシア軍の中枢幹部の1人である西部軍管区の司令官が戦況報告を要求し、「フラコベから撤退してはならないと命じた」と記録されている。

公式記録によると、当時の同管区司令官はアレクサンドル・ズラブリョフ上級大将だったが、その後プーチン大統領によって同氏は解任された。 だが独立系ロシア軍事分析団体CITは、同氏が7月より前に解任され、後任にアンドレイ・シチェヴォイ中将が起用されたとしている。ロイターはズラブリョフ氏と連絡を取ることができなかった。またシチェヴォイ氏にコメントを求めたが、返答はなかった。

その後数時間にわたって、ロシア側の司令官らは援軍を送り込み、攻撃ヘリコプターを動員した。午後6時前には、ウクライナ軍は退却を始め、ロシア軍は一旦放棄した陣地を奪還していった。だが損失は大きかった。ロシア軍は戦車1台と装甲兵員輸送車2台、その他軍需品を失っていた。7月21日にポポフ大佐に提出された報告書によると、39人の兵士が負傷し、7人が死亡、17人が行方不明となっていた。

戦車司令官のアレクサンドル・エフセフレエフ伍長は、この戦闘で亡くなったロシア兵の1人だ。地下壕の司令部で発見された死傷者リストには、同伍長の死亡時の状況が記されている。それによると、同氏の腹部は引き裂かれて腸がむき出しの状態になり、右腿上部に破片による損傷が見られたという。伍長の両親はロイターの取材に、息子は配置されていたフラコベ周辺でウクライナ軍ヘリコプターの攻撃を受けて負傷し、死亡したと語った。

戦闘後、5人の兵士が「急性ストレス反応」で治療を必要とした。医療記録には、彼ら全員の名前の横に「退避させる必要なし」と書かれてあった。

爆発によって負傷したとの記録がある20代のある兵士は、記憶はほとんど残っておらず、「戦闘が激しかった」ことしか覚えていないと、ロイターに語った。同兵士は、匿名を条件に取材に応じた。

この戦闘後、ポポフ大佐は、部下34人に勇敢さを称える勲章を贈るよう上層部に申請した。文書には、上層部の返答内容は残されていない。兵士2人は、まだ勲章をもらっていないと、ロイターに明かした。

偵察小隊のピョートル・カリーニン隊長(25)は、この34人の中に名前があった1人だ。カリーニン氏はクリミア出身で、2014年に同地域がロシアに併合される前は、ウクライナ軍で士官候補生だったことがあると、ソーシャルメディアに載せている。同氏がウクライナの軍服を着た写真も残っている。カリーニン氏はロイターの取材依頼に返答しなかった。

<限界点に近づく>

地下壕にあった文書からは、ロシア軍の司令官らが自分たちの戦力の欠点を理解していたことがうかがわれる。

7月19日、フラコベでの戦闘が始まる数時間前、氏名不詳の将校は毎日の状況報告に、敵を追跡するためのドローンを求める走り書きをした。

「クワッドコプターを!!!緊急にだ!」

クアッドコプター(4ローターのヘリコプター)型ドローンは一般に軍用ではなく、店頭やインターネットで購入することができる。6月にロイターが報じたように、ロシア軍はドローンを購入するためにクラウドファンディングに頼ってきた。 

日報の記録によると、バラクレヤ駐屯部隊は翌20日にようやく、市販のクアッドコプター型ドローン「マビック3」を3機受け取った。しかしソフトウエアがインストールされておらず、まだ飛行できる状態ではなかった。同じ記録には、兵士15人が操作方法の訓練を受けたと記されている。

一方、ウクライナ軍はロシア軍の陣地にドローンを飛ばすのに忙しかった。電子戦部隊の報告書のメモによると、ロシア軍の3台の通信妨害装置のうち2台が修理が必要で作動していなかった。このため、ウクライナ側のドローン作戦はずっと容易になったとみられる。  

7月21日の日報には、バラクレヤ駐屯部隊の指揮官であるポポフ大佐にとって、さらに憂慮すべき情報が記されている。ロシア連邦保安局(FSB)が、ウクライナ軍が米国から供与された「ハイマース」3基をこの地域に導入することを把握したという内容だ。また、ウクライナ側がロシア軍の司令部1カ所とバラクレヤ駐屯部隊が使用している倉庫4カ所の位置を正確に把握していたことも明らかになった。

ウクライナの国防相と軍は武器や戦術に関する質問に回答しなかった。

3日後の7月24日には、この手書きのノートを書いた人物は、「ハイマース」を使った攻撃により、ロシア軍のバルト艦隊第336海軍歩兵旅団に所属する兵士12人が死亡したと記録している。

この戦闘で兵士の士気はさらに低下し、規律は一段と緩んだ。

フラコベでの戦闘から5日が経過した7月24日、バラクレヤの拠点では、氏名不詳のノートの著者が、アルチョム・シュタンコ氏という人物について、「自身の小隊を引き戻して後退させた」ために懲戒処分を受ける「ろくでなし」だと記していた。

シュタンコ氏は、フラコベの戦闘の真っただ中にいて打撃を受けた小隊を指揮していたと、同氏の父親アレクセイさんと、バラクレヤ駐屯部隊にいた「プラカート・ジュニア・888」は証言する。

アレクセイさんは、息子が「部下を砲撃の中に送り込め」という中隊長の命令を拒否したと明かした。「プラカート・ジュニア・888」によると、この司令官はビクトル・アリョーヒンという名前で、フラコベ近くの司令部で指揮を執っていた。アリョーヒン氏はロイターの取材に対し、この戦闘中に中隊を率いていたことを認めたが、それ以上のコメントは控えた。

シュタンコ氏の父親はロイターに対し、同氏は司令官らによって別の部隊に移動させられ、現在もウクライナで戦っていると述べた。

ノートは、ウクライナ軍の猛攻を受けた第9自動車化狙撃連隊のロマン・エリストラトフ伍長の脱走にも言及していた。エリストラトフ伍長はロイターからのメッセージに応じなかった。

その後、このノートの著者は、これ以上の行動を避けるためにわざと自分の手を撃った兵士のことを書いている。司令部にこの事件を知らせるべきだと彼は付け加えた。

これらの情報は、ロイターが確認した公式報告書には一切記載されていない。

<枯渇する物資>

地下壕で見つかった文書によれば、ロシア軍は7月末までに、ウクライナ軍が「バラクレヤの支配権を取り戻す」べく反転攻勢を準備していることを確信していた。

傍受した通信は、今にも攻撃が迫っている緊迫した状況を示唆していた。こうした通信の一部は、エストニアや英国、オランダ、米国などで登録された携帯電話を介して行われていた。地下壕の司令部に陣取ったロシア将校らは、それらの携帯電話が雇い兵、もしくはウクライナ軍を援助する他国の教官が所有するものだと結論付けた。この記事に関して問い合わせると、エストニアは同国の防衛部隊はウクライナ国内で活動していないと回答。英国、米国、オランダからの返答は得られなかった。

一方この時期、ロシアの軍用電子機器専門家がバラクレヤに到着した。8月4日付の日報によれば、衛星ナビゲーションシステムを妨害するロシアの「ポール21」システムがハイマース対応に応用できるか調べるためだという。

この試みがどんな結果に終わったかに関係なく、ウクライナ側の攻撃は続いた。

ロシア兵や亡くなった兵士の親族、地元住民への取材によれば、ウクライナ北東部にある指揮拠点の少なくとも3カ所が、その翌週以降にハイマースによる攻撃を受けたという。

日報やノートに手書きされた記録によると、ウクライナ側による攻撃の増加を受け、バラクレヤ指導部は追加部隊の招集に着手。しかし、8月30日付のスプレッドシートの記載によると、部隊の戦力は全力の71%にしか満たなかった。この表の中には、さらにひどい状態にあった部隊も記録されている。定員240人の第2急襲大隊には49人しかいなかった。また第9BARS旅団には、想定人員の23%しかいなかった。

別の表には機材の記録もあった。7月25日に5台あったドローンは8月末までに2台のみとなっていた。8台の装甲兵員輸送車は3台にまで減少。7月末には24台所有していた「ファゴット」と呼ばれる対戦車ミサイルシステムは、4台が残るのみだった。敵の電子システムを抑圧する「ズーパルク」システムも8月末までに失われた。

ロイターが取材したロシア兵「プラカート・ジュニア・888」は、十分な装備がない中、相次ぐウクライナ軍の攻撃をかわさなければならなかった8月の戦況を振り返った。配置されていた3カ月の間、彼が塹壕で使っていた小さなカレンダーが、差し迫った当時の様子を物語る。「攻撃」や「包囲から脱出」という走り書きや、戦闘で命を落とした仲間の名前で埋め尽くされていた。8月27日の枠には「最悪の日」とだけ記されていた。彼の話では、彼らの陣地が激しい砲撃に遭い、友人の一人が彼の腕の中で命を落としたという。

8月下旬の状況を「軍需品やドローンなどの物資は何もなかった」と説明する。ウクライナ軍が攻撃を重ねる中、「我々が砲撃をやり返すことはなかった」と話した。

<大混乱、そして撤退>

ウクライナ側は9月6日に本格的な反転攻勢を開始した。

その日フラコベにいたロシア兵士はロイターに対し、ウクライナはまずロシア軍の陣地に砲撃を行ったと証言した。夜になるとロシア軍は包囲されていた。この時点で、村からの撤退命令が下ったという。

戦闘は続いた。9月6日から8日にかけて、バラクレヤの司令部に対する精密攻撃が複数回行われた。この工場施設を管理していた地元民のリョボチキンさんは、施設全体が炎に包まれ、ロシア兵数十人の遺体ががれきから回収されるのを見たという。

爆発で、「うちの家は踊るように跳ねていた」とリョボチキンさんは語った。

9月10日にソーシャルメディアに投稿された動画では、ロシア軍が車両を置いていた格納庫が破壊された様子が映っており、ウクライナ軍兵士が「これがハイマースの力だ」と話す声が聞こえる。

ここから300メートル離れた場所に住んでいる年配の夫婦、ナタリアさんとビクトルさんは、ロシア軍が占拠していた最後の日々は、ウクライナ軍による攻撃の音が絶え間なく聞こえたと語った。8日に爆音が止むと、道には30人ほどの兵士が現れた。多くは負傷しており、足を引きずったりしながら撤退していったという。ほか2人の住民も、兵士らが銃や車両を放棄して逃げたと証言した。

2人の住民の一人、セルヒーさんは、司令部だった建物から道を挟んだ向かいに住んでいる。「カオスだった。逃げるロシア人による渋滞が発生していた」

また、ルガンスクからの兵士も、ロシア兵の一団の後を追うように撤退したと住民は証言している。

撤退後、司令部に残されたのは爆発によるクレーターと、書類の山だ。焼け焦げたロシア軍の装備の残骸からは白い煙が上がっていた。

指揮官だったポポフ大佐の妻はロイターに対し、ある時点で大佐は負傷し、1カ月入院したと語った。同氏は将官に昇格し、近いうちに新しい任務に就くというが、それ以上の情報は明かされなかった。

氏名不詳の参謀将校が残した手書きのノートの最後の書き込みは、日付がなく、内省的なものだった。

「ある程度の時間、座って川をじっと眺めていると、敵の兵士がぷかぷかと流れてくる」

次のページに進むと、ノートの主は、バラクレヤから7000キロ離れた極東のふるさとに戻ったところを想像した「未来日記」を記していた。

「2023年8月10日に帰宅、すでに家族と自宅にいる。わたしは家族、妻、そしてかわいい娘たちと、ハバロフスクで素晴らしい時を過ごしている」

(斎藤真理記者、Maria Tsvetkova記者、Anton Zverev記者、翻訳:エァクレーレン、寺本晶子、本田ももこ、大澤優花、宗えりか)

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