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「タブー」破ってロシア語使ったゼレンスキー氏 侵攻前、プーチン氏とただ一度の対面

World Now 更新日: 公開日:
2019年12月9日、大統領就任半年のゼレンスキー氏(左端)はパリのエリゼ宮(フランス大統領府)でプーチン(右端)と会談した
2019年12月9日、大統領就任半年のゼレンスキー氏(左端)はパリのエリゼ宮(フランス大統領府)でプーチン(右端)と会談した。2人が同席したのはこの1度だけだ=ロシア大統領府提供

プーチン 戦争への道② 2019年12月 パリ 世界を混迷に陥れたロシアによるウクライナ侵攻から、間もなく半年が過ぎようとしています。唐突にも見えたプーチン大統領の決断ですが、これまでの経緯を丹念にたどってみると、紆余(うよ)曲折を経ながらも一歩、そしてまた一歩と開戦に向かって進む一筋の道が浮かび上がってきます。

耳につけたイヤホンから聞こえるロシア語の同時通訳者の声が止まり、ウクライナのゼレンスキー大統領本人の特徴のある低い声が聞こえてきた。ゼレンスキー氏が話す途中で言葉をウクライナ語からロシア語に替えたのだ。

19年12月9日、パリのエリゼ宮(大統領府)。ゼレンスキー氏は記者会見でドイツのメルケル首相(当時)とフランスのマクロン大統領を間に挟んでロシアのプーチン大統領と一つのテーブルに横並びに座り、記者団に向かって「ウクライナでは誰もロシア語で話すことを禁じていない。それをロシアの大統領にも伝えた」と話した。

そしてロシア語のまま「ロシア大統領と我々は全く逆の見解を持つが、対話で解決策を見つけたい」とも言った。

ゼレンスキー氏がロシア語を話し始めたとき、ロシア語を理解するメルケル氏がそのことに気づいたようで、マクロン氏に目配せして何かをささやき、2人は笑顔を見せた。2人とは対照的にプーチン氏は表情を変えず、下を向いたまま険しい顔でメモにペンを走らせ続けた。

4カ国首脳会議は長引いた。隣の建物で待たされた私たち記者団は、夕方遅い時間に宮殿内に招き入れられ、さらに夜まで3時間近く待たされた。

会議のテーマは、14年に始まったウクライナ東部の紛争の和平プロセスだった。「ウクライナ危機」は2014年、ウクライナで親ロシア政権が市民の抗議で倒れたことに反発したロシアが、南部クリミア半島を併合して始まった。続いて東部での親ロシア派勢力とウクライナ軍との武力衝突が勃発し、翌15年2月に停戦合意が結ばれた。4カ国首脳会議はその合意をどう実現させるかをめぐって続いてきたが、ロシアとウクライナの対立で行き詰まり、この日の会議はウクライナのポロシェンコ前大統領が出席した2016年秋以来3年ぶり。半年前に大統領に就任したばかりのゼレンスキー氏がプーチン氏と顔を合わせるのはこれが初めてだった。

パリのエリゼ宮(仏大統領府)に到着したロシアのプーチン大統領
パリのエリゼ宮(仏大統領府)に到着したロシアのプーチン大統領=2019年12月9日、喜田尚撮影

協議が難航したのは明らかだ。それでも会見場にやってきた仲介役のメルケル氏とマクロン氏の表情が晴れやかだったのは、いったん破綻したと思われた協議が3年ぶりの開催で再び動き出したかのように思えたからだろう。記者会見でゼレンスキー氏は場の緊張を和ませるように、何度か笑みを浮かべた。プーチン氏と同席するときは終始厳しい表情を崩さなかった前任のポロシェンコ氏とは対照的だった。

ゼレンスキー氏がこの席でロシア語を話したことには意味があった。ウクライナにとって唯一の公用語のウクライナ語は国のアイデンティティーで、大統領が外交の場でロシア語を話すのは御法度に近い。ただプーチン氏は「ウクライナではロシア系住民やロシア語話者が迫害されている」と主張していた。

ロシアとの結びつきが強かったウクライナ東部や南部では、多くの人が民族や信条の区別なくロシア語を話す。ゼレンスキー氏がそうした地域の一つである中南部クリビーリフの出身で、ロシア語を母語とすることは周知の事実だ。コメディー俳優時代の舞台やドラマもロシア語だった。記者会見での「御法度破り」は、ウクライナに関するプーチン氏の主張が現実からかけ離れていることを指摘し、「等身大の交渉を」という同氏へのメッセージでもあったはずだ。

首脳会議の開催に動いたのはゼレンスキー氏だった。プーチン氏との対話を拒んだ前政権の方針を覆し、拘束していた兵士や民間人の交換に乗り出した。会談に向けロシアが突きつけた条件は丸のみした。大統領府に対ロシア強硬派のデモ隊が押し寄せたが、アドバイザー役だったフメリニツキー大学のルスラン・ステファンチュク哲学教授(現議会議長)は私に「ロシアは侵略国という認識は変わらないが、何もしないで戦死者が増えるのは正しくない」と話した。

パリのエリゼ宮(仏大統領府)に到着したウクライナのゼレンスキー大統領
パリのエリゼ宮(仏大統領府)に到着したウクライナのゼレンスキー大統領=2019年12月9日、喜田尚撮影

ゼレンスキー氏が犠牲を払ってでもプーチン氏との会談を目指したのは、国内の政治不信に応えるためだった。14年、国民は経験豊かな富豪、ポロシェンコ大統領に国の立て直しを託したが、インフレや緊縮財政にさらされ、東部の紛争も止まらなかった。国民に何を信頼するかを問う19年1月の世論調査では「隣人」と「ボランティア」が68%と61%で1、2位を占める一方、「議会」「政府」と答えた人は11%と8%にすぎなかった。

ゼレンスキー氏は18年の大みそかの夜、テレビでビデオメッセージを流して大統領選への立候補を表明し、わずか1カ月半で世論調査のトップに躍り出た。クリミア併合の翌15年からテレビドラマ「国民のしもべ」で大統領役を演じてきた。平凡な歴史教師が、教室で汚職に怒りをぶつける映像が生徒のSNSで拡散したことで大統領に選ばれ、既成の政治家や財閥、難問を突きつける国際機関と苦闘するという役柄だ。ゼレンスキー氏はドラマがもたらした「理想の大統領」のイメージと、「ロシア語地域出身でかつ親欧米派」という地域や言語の違いを超えて支持を集める素地を併せ持っていた。政治研究所「ペンタ」のボロディーミル・フェセンコ所長は「たとえ幻想混じりでも、国民を統合できる新しい人物が必要だった」と話した。

ゼレンスキー氏の大統領選での公約は「戦争を止めること」。東部の紛争の死者は1万3000人を超えていた。ゼレンスキー氏は5年間動かなかった東部の状況を動かす必要に迫られていた。
しかし、その対話路線もプーチン氏を動かすことはできなかった。

侵攻12日前のゼレンスキー大統領
侵攻12日前のゼレンスキー大統領=ウクライナ南部ヘルソン州、喜田尚撮影

4カ国首脳会議では兵力引き離しや4カ月後の再会談で合意し、一定の成果が上がった。20年7月には完全停戦のための新しい措置が合意され、その後3カ月で武力攻撃を含む停戦違反の件数がそれまでの2割以下にまで減った。たが、ロシアは再会談には応じなかった。

15年の停戦合意はもともと、親ロシア派が軍事的な攻勢をかけて犠牲者が増え続ける状況の中で結ばれ、ロシア側に有利な条項が入った。ゼレンスキー氏は和平プロセスを動かすため一部を修正する協議を求めたが、プーチン氏は拒否。21年、紛争勃発以来仲介役を担ってきたメルケル氏の首相退任を前に何度か再度の首脳会議開催を目指す4カ国代表らの協議が開かれたが、ロシア側は「ウクライナが合意を破壊しようとしている」と主張し続けた。

その秋、ロシアは軍をウクライナ国境に結集させ、米国や北太平洋条約機構(NATO)にウクライナを加盟させないと保証するよう要求を突きつけた。プーチン氏が求めた交渉相手はあくまで米国、NATOだったのだ。

ロシアのウクライナ侵攻までプーチン氏とゼレンスキー氏の会談は、パリでのたった1度だけに終わった。侵攻前日の2月23日夜、ゼレンスキーは演説でプーチンに電話協議を申し入れたが拒否されたと明かした。再びロシア語で、そして今度はロシア国民に訴えた。「ロシアとウクライナは別々の国だ。だが異なることは敵になることではない……。それでも攻撃するなら、我々は自分を、子供たちを、そして自由を守る」

プーチン氏をかたくなにさせたものは何か。次回は、プーチン氏が大統領に就任してまだ間もなかった政権初期の2002年にさかのぼって考える。(つづく)