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「培養肉のステーキ」実現への道 売り場に並ぶため越えなければならない「山」とは

World Now 更新日: 公開日:
米ブルーナル社が研究を進めている培養魚肉を使った食品=同社提供

■細胞から肉が生まれる「魔法」

青いガウンを羽織った科学者が、電子顕微鏡をのぞき込んでいた。その横では、窓つきの冷蔵庫のような装置の中で三角フラスコが揺れている。

「エビやカニから分離した幹細胞を培養しています。『魔法』の始まりです」

案内してくれたサンディヤ・シュリラムさん(36)がほほえんだ。細胞培養による「エビ肉」の開発を手がけるシンガポールの企業、ショーク・ミーツの共同創業者だ。2018年創業の同社は、培養エビ肉を使ったシューマイの試作などに成功。23年の商品化をめざしている。「エビやカニには取りすぎや、養殖での抗生物質の使いすぎといった課題も多い。それらを解決し、海の多様性やいい環境を残していくのが、私たちの使命です」とシュリラムさんは言う。

エビ、カニの培養肉をつくるショーク・ミーツ社の研究室=2022年3月3日、シンガポール、西村宏治撮影

細胞から肉が生まれる「魔法」はこうだ。細胞分裂などによって増殖する能力のある細胞を取り出し、栄養分が入った培養液の中で増やしていく。この原理で、培養液が200リットル入る大きな容器を使うと、約4週間で約20キロのエビの肉が生まれる。来年に建設する新工場では、規模拡大で価格を1キロあたり50ドル(約6200円)程度まで下げることをめざす。

米カリフォルニア州サンディエゴでも、本物の魚の細胞から培養魚肉を作る研究が進んでいる。作ろうとしているのは、日本でも人気のクロマグロ(本マグロ)だ。

クロマグロは日本が世界最大の消費国。とりすぎで量が減り、15年、国ごとの漁獲枠が導入された。国際自然保護連合(IUCN)は昨年、絶滅危惧種にしていた太平洋クロマグロの分類を準絶滅危惧種に引き下げたが、資源量は回復の途上だ。

そんな現状に注目したのがスタートアップ企業ブルーナルだ。CEOルー・クーパーハウスさん(61)は「できた魚肉はふだん食べている魚と同じ味、同じ食感。しかも、海中に漂う水銀やマイクロプラスチック、環境汚染物質が入ることはない。安全で健康的だ」と力説する。「私たちの惑星が警告を発していることを消費者は知っている。消費行動が気候変動に影響を及ぼすと気づいている。そうした要求に応え、持続可能な社会を目指すのがフードテックだ」と話す。

培養魚肉の販売を認可した国はまだない。だが、日本の食卓に上がる日はそう遠くないかもしれない。

米ブルーナル社のルー・クーパーハウスCEO=同社提供

今年1月、ブルーナルは回転ずしのチェーン店「スシロー」などを傘下に持つフード&ライフカンパニーズ(F&LC)との提携を発表した。すしネタの新たな供給源の開発のためという。F&LCの経営企画を担う執行役員、田中洋祐さん(44)は「クロマグロは使用量が多く、お客様にも愛されている。一方で、需要に応えられるだけの量の天然の魚を確保するのが年々難しくなってきている」と話す。昨年夏から連絡を取り、提携を持ちかけたという。

田中さんの危機感は強い。「赤潮被害や気候変動で、思うように魚がとれなくなっている。加えて原油高や円安になると輸入のための物流コストも上がる。原料確保のための手段を複数持っておくことが欠かせず、将来の技術に積極的に投資することが必要と考えた」と話す。

さらに、世界人口の増加によって、牛や豚、魚などの需要は今後も増加が見込まれている。国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書は、培養肉は「人類のたんぱく質需要を満たすことに寄与する可能性がある」と指摘した。

培養肉は広がるのか。市場予測を出した会社の一つ、コンサル大手A.T.カーニーの報告書は、25年の食肉市場で取り扱う肉の90%は「通常」の肉で、10%は大豆などの植物性たんぱく質から作った代替肉と見込む。これが40年には、通常の肉が40%、代替肉が25%。残りの35%は培養肉が占めると予測している。

米ブルーナル社が研究を進めている培養魚肉を使った食品=同社提供

国内でも培養肉の研究開発が進んでいる。日清食品ホールディングス(HD)は、東大と共同で牛ステーキ肉の研究をしている。研究を担う古橋麻衣さん(30)は17年、新入社員研修を終えたあと上司に培養肉の研究開発を申し出た。先例がない難しいテーマだが、チャレンジ精神が認められ、異例のゴーサインが出た。「牛は牧場で育てるため飼料がたくさん必要になる。培養肉は少ない資源で作ることができ、衛生状態を管理できて食中毒のリスクも減らせる。そこに可能性を感じている」と話す。

歯ごたえのある肉を作るには、肉本来の構造のように細胞を同一方向に向かって整列させる必要がある。そのため、古橋さんはコラーゲンを混ぜ合わせたシートを作り、そこで細胞を培養してみた。そのシートを約30枚積み重ねて培養すると、1センチほどの厚みの肉ができた。

牛の培養肉=日清食品ホールディングス提供

当面の目標は、7センチ四方の大きさで厚さを2センチにすることだが、さらに厚くするには技術的な課題の解決が必要だ。

今年3月末、研究チームは東大の倫理審査専門委員会の承認を得て、研究開始以来初めて培養肉を食べてみた。「うまみは出ている」と評判は上々。味や食感など「おいしさ」を追求する研究開発が進むことになり、日清食品HDは「実用化への大きな山を一つ越えた」としている。

今年3月、初めて培養肉を食べる東京大と日清の研究グループの古橋さん(左)。右は竹内昌治教授=日清食品ホールディングス提供

とはいえ、培養肉という新しい食べ物を流通させるには、法的規制をクリアするだけでなく、社会に受け入れられる必要がある。

産官学でフードテックの活用について検討する協議会を立ち上げた農林水産省によると、培養肉は「肉」なのか「加工食品」なのか、線引きがまだできていない。担当者は「何より安全性が大事だ」と強調する。「消費者に届ける前に、どう安全性を確認するか議論していきたい」

協議会に参加する日本細胞農業協会が実施した培養肉についての21年のアンケートでは、培養肉を「知らない」と答えたのは6割弱。「気になること・心配なこと」については「食の安全性が担保されているか不安」とする回答が最多だった。

分子調理学が専門でフードテックに詳しい宮城大の石川伸一教授(48)によると、人間には食べ慣れていない物を本能的に警戒する「食物新奇性恐怖」がある。「どう作っているかわからないと抵抗を感じる人は多い。提供する側が積極的に説明することが大事になる」と話す。

一方で、消費者側も何を基準に選ぶのか真剣に考えないといけない時代になった、という。「通常の肉と培養肉と植物性代替肉、味も価格も一緒だったらどれを選べばいいのか。食の選択はその人の思想、アイデンティティーにかかわる。食べるという行為に価値観がより投影されるようになる」