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「歴史問題提起しない」明言した盧武鉉氏、直後の変節 そしてシャトル外交は消えた

揺れる世界 日本の針路
記者会見する小泉純一郎首相と盧武鉉大統領
記者会見する小泉純一郎首相と盧武鉉大統領(いずれも当時)=2004年7月21日、韓国・済州島で、阿古慎一郎撮影

盧武鉉大統領が「歴史問題を提起しない」と語ったのは、2004年7月に済州島での日韓首脳会談後の共同記者会見の場だった。盧武鉉氏は、1998年の日韓共同宣言を成し遂げた金大中大統領の後継者だった。03年6月には国賓として訪日し、未来志向の考えを説き、日本で高く評価された。済州島会談は、日韓共同宣言の行動計画がうたった「シャトル外交」の成果でもあった。

当時、小泉純一郎首相は毎年、靖国神社に参拝していた。未来志向を強調する盧武鉉氏の姿勢は、支持基盤とする市民団体の反発を呼んでいた。朴晙雨氏は「直接、確認はしていない」と断りつつ、「韓国内の一部の学者や市民団体たちが韓日関係について、日本は賠償も謝罪もしていないのに関係を改善していいのか、と主張していたようです」と語る。

朴晙雨氏は済州島会談の前月、外交通商省のアジア太平洋局長に就任していた。朴氏は「済州島会談は大変雰囲気が良かった」と振り返るが、会談直後、日韓関係に影を差す事件が起きた。韓国の科学者が微量のプルトニウム抽出実験を行っていた事実が明らかになった。朴氏は「盧武鉉大統領には良好な韓日関係のために努力してきた自負がありました。日本は韓国の立場に立って、事件を批判する米国やIAEA(国際原子力機関)をなだめてくれるのではないかという期待がありました」と語る。

しかし、核問題に敏感な日本は、この事件を批判し、韓国に真相究明を迫った。朴氏によれば、盧武鉉氏は当時、「なぜ、日本は韓国を強く批判するのか」と周囲に語っていた。日韓両政府はすでに、第2回シャトル外交を九州で開くことで合意していたが、盧氏は「日本に行きたくない」と抵抗したという。周囲の取りなしもあり、04年12月、鹿児島県指宿市で何とか2回目のシャトル外交が実現した。

翌05年1月、佐々江氏が外務省アジア局長に就任した。佐々江氏は当時の状況について「中国が首相の靖国参拝を問題視しており、韓国側も影響を受けて共鳴していました。そこに、竹島や日本の歴史教科書の問題も加わりました」と説明する。

ソウルの地下鉄駅に設置された竹島(韓国名・独島)の模型
ソウルの地下鉄駅に設置された竹島(韓国名・独島)の模型=2015年2月、武田肇撮影

2月23日、島根県議会に「竹島の日」を制定する条例案が提出された。韓国外交通商省は「深い遺憾」を表明し、日本政府と島根県に条例案の即刻撤回を要求。高野紀元駐韓大使が同日の記者会見で「竹島は歴史的にも法的にも日本の領土」と述べる事態に発展した。

盧武鉉氏は3月1日、日本からの独立運動を記念する式典で「過去の真実を究明し、真に謝罪、反省し、賠償すべきことは賠償して和解するべきだ」と語り、日本を強く批判した。朴氏によれば、盧武鉉氏は、外交通商省や大統領府が準備したペーパーではなく、自らが直接したためた演説文を読んだという。3月17日には、「韓国政府は徹底した真実究明、真の謝罪と反省、その後の許しと和解という世界の普遍的方式に基づいて過去の問題を解決する」などとした新たな対日方針が発表された。

朴氏は「潘基文外相らがなだめようとしたが、うまくいきませんでした。大統領補佐陣の一部に『日本と近くなることは、政治的に助けにならない』とアピールする人もいたと、後で聞きました」と語る。

盧武鉉大統領は読書家としても知られた。04年3月から5月にかけ、野党などの弾劾訴追によって大統領職務が一時停止されたときも、ひたすら読書にふけっていたという。朴氏は「大統領は、市民団体などが推薦する本からも影響を受け、徐々に日本に対する考えを変えていきました」と語る。

盧武鉉大統領の退陣を求める保守団体のデモ
盧武鉉大統領の退陣を求める保守団体のデモ=2004年5月14日、ソウル、東亜日報提供

2005年6月、小泉首相と盧武鉉大統領はソウルで会談した。シャトル外交という位置づけで、当初は地方開催の予定だった。「シャトル外交はこれ以上やらない」と主張する盧武鉉氏を説得し、ソウルでの開催に落ち着いた。

あくまで、シャトル外交という位置づけだったが、盧武鉉大統領はネクタイを締めての会談を希望した。朴氏によれば、約2時間の会談のうち、過去の問題が1時間50分を占めた。主に盧氏が話していた。朴氏は「大統領の発言の趣旨は、日本は言葉だけで行動しない。別の場所に行くと、韓国人に配慮する行動を取らない。こうした態度が変わらなければ、韓日は仲良くなれない、というものでした」と語る。

小泉首相は日本の立場を説明していた。陪席した朴氏は両首脳のやり取りを聞きながら、「シャトル外交はもうこれ以上は難しい」と思った。朴氏は05年7月、外相特別補佐官になった。

そして同年11月、釜山でAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議が開かれ、小泉首相と盧武鉉大統領が再び会談した。会談は6月のソウルでの会談と全く同じ展開になった。盧氏は冒頭、「自分は靖国神社と独島(竹島)、日本の歴史教科書のことを考えると夜も眠れない」と切り出した。過去の問題をずっと追及し続ける盧氏と、淡々と日本の立場を説明する小泉氏。佐々江氏が盧武鉉氏に視線を向けると、盧氏は発言要領は読まず、ひたすら自分の考えを訴え続けていた。視線を朴氏らに移すと、韓国側の陪席者はみな下を向いていた。

最後には時間がなくなり、小泉氏たちは席を立った。盧武鉉氏は会場を去る小泉氏の肩越しに「私は決してあきらめない」と言い放ったという。

1998年の日韓共同宣言も担当した佐々江氏と朴氏は暗転した日韓関係をどう眺めていたのか。

佐々江氏も朴氏も「盧武鉉氏は当初、本当に日韓関係をよくしたいと考えていました」と証言する。

その一方で、佐々江氏は「05年3月の盧武鉉大統領の演説を聞いたとき、日韓共同宣言の精神に反していると思いました」と語る。「盧武鉉大統領は弁護士出身で正義感は強いが、感情に流されやすい面がありました。学生運動が盛んだった1960年代から70年代の日本で見られた主張に似ています。日本に対する期待が一方的で、高すぎたのでしょう」

朴氏も「進歩(革新)政権は、市民団体出身者を数多く登用します。盧武鉉大統領は学者や市民団体の話を聞き、本を読み、だんだん日本に対するイメージが悪くなっていきました」と話す。

その結果、貴重な交流の場である日韓シャトル外交は途絶えた。5月に誕生する尹錫悦次期政権も日韓シャトル外交の復活に意欲を示すが、実現するかどうかはまだ見通せない。