■「俺たち」の大統領参上
ベトナムのハノイ特派員としてフィリピンを担当した2016年の秋から、私は就任直後のロドリゴ・ロア・ドゥテルテ氏(76)を追いかけた。いや振り回されたといった方がいい。一番の友好国である米国のバラク・オバマ大統領(当時)をののしって首脳会談をおじゃんにし、自らをヒトラーになぞらえ「麻薬中毒者を喜んで殺したい」と話す。そのたびに出稿に追われた。
そんなドゥテルテ氏に魅了される自分がいた。17年4月、マニラであった東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議の記者会見でのこと。彼は女性の記者とだけ写真を撮ると言いだし、「女性たち!」と呼びかけた。「まったく。女好きでしようがないな」と思いつつ、キャーッと壇上に押し寄せる人を押しのけて近づいた。「もてるんですね」と声をかけると、「そうかなあ」と肩をすくめてはにかむ姿がかわいらしかった。
フィリピンで現地生産する日本車のPRイベントの取材に行った際は、去り際に「あなたも買いますか」と聞くと、わざわざ記者たちの元に戻ってきた。「孫に買おうかなあ。実はこのあいだ中古車を買ってやったら下の子が焼きもちをやいちゃって」と身内の話をはじめた。気さくで話のうまいおじさん。何ともいえぬ魅力に引き込まれそうになった。
教皇や国連事務総長らへの暴言も多々あったが、実際会うと気取らず、聴衆を笑わせる姿はほのぼのとしてみえた。「ああいう感じは彼の出身地の特徴なの?」。演説中にジョークに笑っていた友人の記者に聞くと、こう返ってきた。「違うよ、彼は『フィリピノ』なのさ」。彼の言葉が当時の人々の気持ちを代弁していたと思う。ドゥテルテ氏はこれまで政治を牛耳ってきたエリートじゃない。「平凡な俺たちフィリピン人」の象徴たる指導者を国民は待っていたのだと。
私にとってフィリピンは大学時代に1年間留学した、とっておきの大好きな国だ。取材でほぼ20年ぶりに訪ね、「発展したなあ」と驚くつもりでいた。でも、ニノイ・アキノ国際空港に降りたってすぐ、変わらぬ「しょぼさ」に驚いた。土産物店の棚には20年前と同じで男性が飛び出てくる木彫りのおもちゃが並び、売り子があまりおいしくなさそうなソーセージを売っていた。中心部へ向かう道路は相変わらず大渋滞で、いつ到着するか予想もつかなかった。
変わったことといえば、町にきれいなカフェやモールが増え、おしゃれな服装の人を見かけるようになったことか。世帯で5万~30万円ほどの月収がある「中間層」の人たちが育ったからだ。
それでもやはり理解できなかったのは、優しくて信心深いあのフィリピン人の多くが、「麻薬犯罪者は殺す」と豪語するドゥテルテ氏の麻薬戦争を支持していることだった。
ドゥテルテ氏の就任後、フィリピンの現地紙には毎日のように、路上に転がる遺体の写真が載った。国家警察が始めた「トクハン」という麻薬犯罪の捜査は、容疑者の家を訪ねて質問し、抵抗すれば射殺もありうるというふれこみだった。就任から半年の16年12月に警察は、本当に麻薬がらみかどうかわからない人も含め計6182人が殺害されたと発表した。
何者かに殺された人もたくさんいた。遺体は顔をテープでぐるぐる巻きにされ、「私は麻薬密売人。まねするな」と書いたボール紙が見せしめのように転がっていた。私が訪ねた遺族は豊かとはいえない家庭ばかりだった。マニラで30代の息子とその妻を殺された女性を訪ねたとき、残された男児がぽつんと下を向いて、ベッドに腰掛けていた。その姉は親を失ったショックで話すことができなくなったと聞いた。思い出すといまも胸が痛い。
でもある日、思いがけない場面に遭遇し耳を疑った。マニラで麻薬密売人が警察に射殺されたと聞いて、私は現場に駆けつけた。庶民的な住宅地の細い路地を進むと、遺体はすでに移され、地面に大きな血だまりが残っていた。近所の女性に話を聞くと、殺された男性の親類だという。警察を批判するだろうと思いきや、彼女は言った。「殺されてよかった。政府の政策はありがたいです」
■中間層支持に潜む危うさ
この政策は支持できない。フィリピンの人たちは変わってしまったのか。もやもやする私が名古屋大大学院准教授(政治学・フィリピン地域研究)の日下渉さんに問うと、こう説明してくれた。
「フィリピンが『頑張っても報われないので、日々を生き抜くために人々と支え合う社会』から、『頑張れば報われるかもしれないので、努力している自分の足をひっぱる余計な人間は切り捨ててもかまわない社会』に転換したことが背景にあるだろう。人との『つながり』がすべてだった社会から、自分の成功や生存のためには人との関係を『切断』してもかまわない社会への転換はかなり短期間に、劇的な速さで進んだように思う。とはいえ、自分の手で『余計な他者』をコミュニティーや家族から排除することはできないので、それを代行してくれる警察はありがたいということなのだろう」
さらに日下さんはこう話した。
「成功を目指して頑張っているフィリピン人は、グローバルなサービス産業の構造のもとで自由や自律性を失い、強いストレスのもとにさらされている。たとえば、米国の顧客に対応するコールセンターでは、アメリカ時間に合わせた夜勤、分刻みの顧客対応、上司による徹底的な監視、非人間的で機械的な作業の繰り返しなどに耐え続ける必要がある。出稼ぎの船乗りや家政婦もそうだ。そうした人たちからすれば、働かず、他人の金に頼って自由気ままに暮らしている人々が憎くなるのは当然だろう。グローバルなサービス産業の底辺に組み込まれ、フィリピン社会が急速にストレス社会になったことの反映でもある」
ドゥテルテ氏を中間層が求めたことは数字にも表れている。民間調査機関ソーシャル・ウェザー・ステーションズなどによると、16年の大統領選でドゥテルテ氏を支持した人は、コールセンターなどで働く中間層以上の45.9%、大卒の49.2%、そして中間層にあたる「在外投票者」の72%を占めた。ドゥテルテ氏に投票したシステムエンジニアの男性(48)は当時を振り返る。「なぜフィリピンはいつまでも貧しいのか。マニラではそこら中に麻薬中毒者やスリがいる。犯罪者が足を引っ張るせいだと思った。ドゥテルテなら変えられると期待したのです」
私が見た気さくな姿とは別の面も含めて、フィリピンの人たちはドゥテルテ氏を支持したのだ。その支持は今なお続く。新型コロナの流行で社会は混乱したが、昨年9月の民間調査では、ドゥテルテ政権に「満足」という回答は67%を維持した。過去の政権と比べても高い数字だ。
20年以上日本で暮らすマリ・カーさん(50)は「電力や水、通信などの基本的なインフラが満たされることが私たちの願い。ドゥテルテは公共投資に力を入れて平均以上の成果を上げたと思う」と話す。政権の旗印になったインフラ整備計画「ビルド・ビルド・ビルド」で、日本も関わる首都圏の地下鉄整備などが動き出し、長年の問題だった交通渋滞の改善が期待されている。また、たびたびの更新手続きが煩わしかった運転免許証やパスポートの有効期間が長くなるなど、ささやかでも、日常が便利に変わる手ごたえを人々は実感したのだ。世界銀行の統計によるとフィリピンの貧困率はコロナ前の19年に20.8%と、15年の26%から改善。借金は膨らんでいるが、経済成長率は6%台前後と安定して伸びていた。
一方で、ウェブメディア「ラップラー」でドゥテルテ政権の麻薬戦争などの検証と批判を続け、昨年ノーベル平和賞を受賞したマリア・レッサ氏(58)は、ドゥテルテ政権が発表する麻薬戦争による死者数がころころ変わったり、ドゥテルテが自身に都合の悪い報道を「フェイクニュースだ」と断じたり、事実と違う発言がソーシャルメディアで拡散したりすることの危険性を訴えてきた。
雑誌のインタビューでレッサは、「情報操作の意図は一つのことを信じさせようとすることではなく、人々をまひさせること。信頼を壊して何もさせないようにすることだ」と指摘した。
こうなると、私たちが見ているものは何が本当なのかと思えてくる。例えばラップラーは、ドゥテルテの遺産というイメージのある「ビルド・ビルド・ビルド」のうち、少なくとも10のプロジェクトは前の政権から始まっており、ドゥテルテの手柄とは言い切れないことを報じた。
思えば麻薬戦争で殺されるのは貧しい人ばかりで、麻薬王と呼ばれる元締の検挙はごくわずかだ。ドゥテルテ氏自身はどうだろう。巧みな話術で笑わせ、自宅では「蚊帳」で寝る庶民派として市民に近づいたけれど、彼の父も政治家であり、自身の3人の子は市長、副市長、下院議員という立派な政治家一族だ。レッサら反対意見を述べる記者は攻撃され、フィリピン最大の放送局は閉鎖された。20年7月には、政権批判者をテロリストと見なして逮捕もしうる「反テロ法」までできた。
「人権を踏みにじる者は、人なつこい姿で現れる。それを許してはいけない」。私にこの言葉を教えてくれたのは、歴代大統領らの風刺漫画を30年にわたりフィリピンの日刊紙に掲載してきた漫画家のジェス・アブレラさんだ。歴代の誰もが容認してきたこの漫画はドゥテルテ政権下の19年、理由も説明されぬまま突然終了した。
私は思った。「ドゥテルテ、ちっさ」(つづく)