弾劾裁判とは
弾劾裁判とは、国会に設置された裁判官弾劾裁判所が、身分にふさわしくない行為をした裁判官や、職務上の義務に違反した裁判官を辞めさせるかどうかを判断する裁判です。
裁判官は、公正な裁判を行い国民の権利を守るという重要な役割を担っているため、国会や内閣から圧力を受けたり、特定の政治的・社会的な勢力から影響を受けたりしないように、憲法で「裁判官の独立」が保障されています。
その例外が弾劾裁判です。憲法で身分が保障されている裁判官といえども、国民の信頼を裏切るようなことをした場合には、辞めさせることができなくてはなりません。
国会と内閣と裁判所という三権分立のもとで、国民の代表である国会議員の中から選ばれた裁判員によって組織される特別の裁判所が判断することになっています。
弾劾裁判で裁判官を辞めさせられると、法曹資格が奪われるため弁護士になることもできず、退職金も出ません。とても厳しい判断なのです。
岡口裁判官は何をしたのか
問題になったのは、岡口裁判官のSNS上の発言です。
かつて岡口裁判官は実名でツイッターをしていました。最新の判決や法改正に関する情報、文献の紹介などを1日に10~20ほどツイートしており、4万人ほどのフォロワーがいました。
2017年、裁判所のウェブサイトに性犯罪に関する判決が掲載された際に、岡口裁判官がそのURLを引用してツイートしたのですが、実はその判決書は、性犯罪に関する判決はネットで公開しないという裁判所のルールに違反して掲載されたものでした。
岡口裁判官は、民事事件を担当する裁判官なのでそのルールを知らず、裁判所のウェブサイトに掲載されているから引用したのですが、東京高裁の長官は、被害者のご遺族から抗議を受けて、岡口裁判官に厳重注意をしました。
その後、ご遺族は国会の裁判官訴追委員会に岡口裁判官の訴追を求めたり、ネットで岡口裁判官の罷免を求める署名を集めたりされたのですが、岡口裁判官はこのようなご遺族の行動について、自分のフェイスブック上に「判決を引用した者だけを非難するようにと、東京高裁及び毎日新聞に洗脳されてしまい、判決を公開した東京高裁を批判することは一切せず、裁判官訴追員会に訴追の申立てなどをしている」という趣旨のことを書きました。
この投稿が問題になり、最高裁判所はまず、「分限裁判」を開いて岡口裁判官を戒告処分にしました。
分限裁判とは、裁判所内部の懲戒処分です。裁判官に「品位を辱める行状」などがあった場合に開かれ、懲戒するべきとなった場合には、戒告か過料(1万円)の処分を受けることになります。
もう一つ、問題になったツイートがあります。
2018年、公園に犬を捨てて3カ月経ってから、犬を拾って育てていた飼い主に元の飼い主が犬を返せという裁判を起こし、東京高等裁判所が元の飼い主の主張を認める判決を出したのですが、このとき岡口裁判官は、判決を取り上げた新聞のウェブ記事を引用し,被告となられた方の主張を要約する趣旨で「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?」などとツイートしました。
このツイートについて元の飼い主が東京高裁に抗議し、岡口裁判官は、分限裁判で戒告処分を受けました。
さらにご遺族と元の飼い主は、国会の裁判官訴追委員会に岡口裁判官を辞めさせるよう請求しました。これを受けて、2021年6月、訴追委員会が岡口裁判官を弾劾裁判にかけることを決定したのです。
なにが問題なのか
問題になった岡口裁判官のSNS上の発言、特に「洗脳」発言は、たしかに不適切だと思います。ご遺族の心情を考えると、「戒告では軽すぎる」と思われる方も多いでしょう。
一方で、これらの行為は裁判官としての身分を奪うだけでなく、法曹資格をも奪うほどの重罰に値することなのだろうか、という視点が必要だと思います。
これまでに裁判官が弾劾裁判所に訴追されたケースは9件あり、そのうちの7件で裁判官が辞めさせられています。
弾劾裁判所のウェブサイトには、それらの事件の内容や判断の理由が掲載されているのですが、これを見ると、証拠隠滅・偽証、収賄、児童買春、ストーカー行為、盗撮など、犯罪にあたる行為やそれに類似する行為が問題にされてきたことがわかります。
すなわち、裁判官としての地位を利用した不正や、刑事事件で有罪になるなどしたケースに限っていました。これは、憲法が「三権分立」制度をとっていることと関係しています。
裁判官が、権力や世論にもおもねらずに国民の権利や自由を守ることができるようにするためには、国会が弾劾裁判というかたちで司法に介入することは、できるだけ控えなければなりません。
もし、国会が弾劾裁判によって簡単に裁判官を辞めさせられるとなれば、裁判官は常に権力者の顔色をうかがいながら仕事をするようになるでしょう。それは、裁判を受ける側にいる私たち国民にとって、とても不幸なことです。
アメリカの制度との違い
ところで日本の弾劾制度は、アメリカをモデルにしています。
合衆国憲法では、大統領や政府高官、連邦裁判官などが「反逆罪、収賄罪、その他の重罪または軽罪」にあたる行為をした場合に、議会が弾劾裁判に行うこととされています。
弾劾裁判の審理は通常の刑事裁判のやり方に沿って進められ、評決では、議員一人ひとり一人が「有罪」かどうかを表明し、出席議員の3分の2の「有罪」表明があれば、辞めさせたり、将来にわたって公職につくことを禁止したりすることができます。
ただ、アメリカの弾劾裁判では、政治的な理由や、職務と関係ない、単なる「不品行」を理由に裁判官を辞めさせることはできません。それだけ「裁判官の独立」が重要だと考えられているのです。
これに対し、日本の裁判官弾劾法では、
- 職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠つたとき
- その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があつたとき
に辞めさせることができるとされています。
「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」、つまり、犯罪や不正などではなく、不品行で辞めさせることができてしまう点でアメリカの弾劾制度とは根本的に異なっており、裁判官が政治的な圧力を感じたり、世論を気にして萎縮してしまったりすることが懸念されます。
「裁判官の独立」を守り、司法が権力の暴走を止める役割を果たしていくためには、弾劾裁判で裁判官が辞めさせられる場合をできるだけ限定する必要があります。
国民の権利にも関わる問題
これから行われる弾劾裁判は、一人の裁判官を辞めさせるかどうかの問題にとどまらず、裁判を受ける国民一人ひとりの権利にかかわる大きな問題です。なぜなら、「裁判官の独立」は、国会が多数決で作る法律によって、国民の権利を奪い取ることができないようにするための、最後の砦だからです。
岡口裁判官の訴追が不当であり、弾劾裁判で罷免することに反対する声が多くの法律家から上がり、私が論じたように、訴追に疑問を呈し、危機感を表明しています。
私たちは「不当な訴追から岡口基一裁判官を守る会」を作り、支援活動を始めています。賛同者は、21名の元裁判官、800名を超える弁護士など、計2500名に達しました。
弾劾裁判の弁護団を支援するためのクラウドファンディングも12月20日から始まりました。
私は、今回の弾劾裁判の結果によってますます裁判所が政治権力に忖度するようになり、一体化して、「三権分立」が名ばかりのものになってしまうことを恐れています。
裁判官は萎縮してSNSで発言することなど許されなくなり、徹底的に管理・統制され、その枠からはみ出したら排除されてしまう。表現の自由や、人としての尊厳よりも、秩序が重視される社会。そんなディストピアの入口に、いま立たされているような気がしています。