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テロ直後、米国から来た空母護衛の要請 そのとき海自は 元統幕長が振り返る20年前

揺れる世界 日本の針路 更新日: 公開日:
海上自衛隊の護衛艦「あまぎり」(右)が護衛する中、東京湾を航行する米海軍空母キティホーク=2001年9月21日、朝日新聞社撮影

■「正確には、護衛のふり」

9月11日のテロ発生から間もなく、横須賀を母港にしていた米空母キティホークが緊急出港を求めているという話が、河野氏の耳に入った。「横須賀にいた方が安全ではないかと思った。でも、米国は当時、誰も信じられず、国民も不安におののいていた。米側は、横須賀上空を飛行する民航機がキティホークに突っ込んでくるかもしれないと本気で心配していた。空母は米軍事力の象徴。攻撃されたら、米国の威信が傷つけられると考えていた」

当時、キティホークの艦載機は厚木基地にいた。「横須賀では作戦不能の状態だった。戦争中にやられるならまだしも、寝ているところをやられるのはたまらない。だから、洋上に出てオペレーションができる態勢を取りたいということだった」。実際、テロ直後、当時の在日米海軍司令官は海上幕僚長との電話で「これは戦争だ」と語っていたという。

在日米軍は海上自衛隊に対し、キティホークが出港して浦賀水道を出るまでの間の護衛を要請してきた。河野氏は当時、「米国全体が興奮しているなか、同盟国として要請を断れば、同盟国ではないという烙印を押されかねない、日米同盟が深刻な打撃を受ける」と思ったという。

統合幕僚監部が設置されていなかった当時、海幕がこの問題を担当することになった。河野氏によれば、海幕は米側の要請に応じるべきだと主張。内部部局(内局)は「何を根拠に行うのか」という反応だったという。中谷元防衛庁長官が海幕と内部部局の幹部を集め、協議した結果、防衛庁設置法第4条が定めた「調査・研究」を根拠にするしかないという結論に至った。河野氏は「防衛出動や海上警備行動の要件を満たしていない以上、それしか方法がなかった」と語る。こうした方針に沿って、内局は首相官邸や政治家に事前に説明することが、海幕は自衛艦隊と作戦の実施について調整することが、それぞれ決まった。

9月21日早朝、キティホークは横須賀を出港した。護衛艦しらね、あまぎりがキティホークの前後についた。海上保安庁の巡視船も周囲を警備していた。キティホーク出港の様子はテレビで中継された。

河野氏は2隻の護衛艦について「正確に言えば、キティホークを護衛するふりをしていただけだ」と語る。「今なら平和安全法制により米艦の防護が可能だが、当時はできなかった」。河野氏は頭のなかで「まず、攻撃を受けることはないだろう」と予想していた。海幕としても、攻撃を想定した突き詰めた議論はしていなかったという。

その一方、河野氏は「万が一、航空機が突っ込んできた場合、護衛艦の艦長は海自護衛艦を攻撃していると判断して、正当防衛や緊急避難の権限で対応するしかないだろう」とも考えていた。「米軍は、海上自衛隊が護衛してくれていると信じていた。我々が真実を明かしたら、腰を抜かして怒っただろう」

河野克俊さん=牧野愛博撮影

ところが、27日の記者会見で、「護衛」の経緯を問われた福田康夫官房長官は「少なくとも私の耳には入っていなかった」と答えた。中谷長官はその後の会見で、「防衛政策課長から官房長官秘書官に連絡した」と明らかにしたが、官邸の怒りは解けなかった。

河野氏は当時の心境について「内局が説明することになっていたのに、どういうことかと思い、びっくりした。海幕の独走だというトーンで伝えた新聞社もあった」と語る。

朝日新聞も同年9月28日付朝刊の記事のなかで、集団的自衛権の行使につながりかねない「護衛」を、防衛庁は「調査・研究」活動として実施したという。このいかにも無理のある判断は、だれが、どう下したのか――と伝えている。

河野氏は「本当に報告していなかったのなら、シビリアンコントロール(文民統制)違反だ。でも、当時、制服組が『事実は違う』と言っても、誰も助けてくれない時代だった。話を聞いてくるメディアもいなかった。いくら説明しても無駄だろうと思い、処分を覚悟した」と語る。

「今なら、統幕長が防衛相に随行して官邸に赴き、首相に説明する。でも、当時はこんな重要な問題でも、課長が秘書官に伝えるという認識しかない時代だった」

ところが、キティホークを「護衛する」護衛艦の姿が米国でも報じられ、米政府から日本に対し、様々なルートで感謝を伝えるメッセージが舞い込んだ。「結局、米国が喜んでくれたため、処分の話はうやむやになった。日米同盟は大いに救われた。やってよかった」と語る。

2015年9月、平和安全法制が成立し、平時における米艦防護が認められた。河野氏は「キティホーク事件を教訓にしたのではない。日米同盟を強化するため、どうやって双務性を高めるかという議論をしただけだ」と語る。「結果的に首相も知らなかったようなオペレーションは市民権を得たとは言えない。したがって新法の教訓にはならないというのが私の見解だ」

■アフガニスタンからの退避実現できず 教訓は

インド洋上でパキスタン海軍の駆逐艦(左)に洋上給油をする海上自衛隊の補給艦「ときわ」=2007年9月、朝日新聞社撮影

一方、河野氏は、世界同時多発テロによって01年から10年まで行われたインド洋での補給支援活動が、自衛隊や日本の安全保障にとって大きな転換点になったと指摘する。「敵味方の旗幟を鮮明にした初めての作戦だった。対テロ戦争を掲げた米側に明確に立った。ペルシャ湾への掃海艇派遣は戦争の後始末という位置づけで、中立の立場だった。PKO(国連平和維持活動)への派遣も中立という立場だった。この作戦があって、その後の海賊対処活動や(アフリカ東部の)ジブチでの自衛隊の活動拠点作りにつながった」

現在の日米同盟は、20年前と大きく変わる一方、更なる課題も突きつけている。そのひとつが、8月のアフガニスタン政権崩壊を受けた、自衛隊機による日本人とアフガニスタン人協力者らの撤収作戦だ。

政府関係者によれば、日本人大使館員らは8月17日、英国軍機でアフガニスタン国外に脱出した。大使館や国際協力機構(JICA)のアフガニスタン人職員と家族の移送については、20日ごろまで米軍機などへの同乗を依頼する方向で調整が進んでいた。各国から支援を受けるめどが立たず、自民党などからは自衛隊機の派遣を求める声があいついだ。政府は23日の国家安全保障会議で緊急事態の際に日本人や外国人の輸送を定める自衛隊法84条の4に基づき、自衛隊機の派遣を正式に決定。C130輸送機2機などが26日までにカブールに到着した。

だが、600人弱の国外移送対象者らがバスに分乗して空港に向かう直前、空港付近で自爆テロが起きた。米軍は28日以降、外国軍用機のカブール空港発着を認めなかったため、当初期待された成果を上げることはできなかった。韓国軍は24日から25日にかけて移送空輸作戦を展開しており、わずかな時間の差が明暗を分けた。

政府関係者の1人は自衛隊機の派遣方針が遅れた理由について、「自衛隊法は安全を派遣の条件にしている。どの国も、カブールの急激な治安悪化を予想できなかった」と語る。アフガン政権崩壊直後、カブールの国際空港では滑走路に多数の人が押し寄せ、航空機から人が転落する事件も起きた。政府関係者は「あの映像を見る限り、自衛隊機派遣の前提である安全が確保されていると判断することは難しかった」と証言する。

河野氏は「国会で自衛隊による移送を認めてもらう際、海外での武力行使を認めないとした憲法を重視した野党に配慮した結果だ」と指摘。「移送作戦が成功しなかったという現実を踏まえる必要がある。安全だから自衛隊に行ってもらうではなく、安全でないから自衛隊が行くという発想の転換をすべきだ」と語る。

「安全ではないから軍隊に行ってもらう。韓国も含め、他国の軍隊はみなこの認識のもとで動いた。今こそ、日本でも正面から議論すべきときだろう」


かわの・かつとし 1954年生まれ。77年、防衛大学校卒、海上自衛隊入隊。海上幕僚監部防衛部長、掃海隊群司令、自衛艦隊司令官、海上幕僚長などを経て2014年から19年まで自衛隊統合幕僚長。現在、川崎重工業顧問。