オ博士が北朝鮮研究を始めたのは1982年。東アジア研究の権威、故ロバート・スカラピーノ教授の勧めだった。オ博士の北朝鮮分析は高い評価を受け、ジョージ・W・ブッシュ大統領も目を通したことがある。オ博士は「今も北朝鮮を知らない米国人は多い。政権交代するたびに痛感する」と語る。今回の書籍は題名通り、「これ1冊読めば、北朝鮮がわかる」という内容にしたという。
6月25日は朝鮮戦争開戦71周年だった。オ博士の著書によれば、当時、金日成主席は東欧に関心を示すソ連のスターリンと、台湾を重視する中国の毛沢東に対して「韓国に侵攻すれば、韓国市民は両手を挙げて歓迎してくれる。米国が支配する韓国政府を打倒するはずだ」と語り、韓国侵攻を支持するよう説得したという。
金日成はその後も、「韓国に侵攻すれば、韓国市民が呼応して革命を起こすはずだ」という考えに固執した。1968年、北朝鮮の特殊部隊が朴正熙韓国大統領の暗殺を狙い、大統領府を襲撃しようとした事件が起きた。ただ1人生き残った金新朝氏は当時、上官から「朴正熙を暗殺すれば、韓国市民が歓迎してくれる。帰路は心配しなくていい」と指示されていたと証言した。1980年、韓国軍が市民を殺害した光州事件が起きた際、金日成は介入して革命を起こす好機を逃したと、周囲に悔やんでみせたとも言われる。
だが、北朝鮮は今年1月に開いた朝鮮労働党大会で党規約を改正。「党の目標」のなかで「民族解放民主主義革命の課業を遂行する」という表現を削除した。韓国の専門家の一部からは「(北朝鮮が韓国を吸収するという)赤化統一路線を放棄したのではないか」という声も上がった。
しかし、オ博士は「北朝鮮は赤化統一路線は絶対に放棄しない。韓国で北朝鮮との対話に期待する一部の人たちによる誤った分析だ」と語る。「韓国では今も、米軍のTHAAD(高高度ミサイル迎撃システム)配備に反対する人がいる。共産主義が理想だと考える勢力は、どの国にも少数存在する」とも指摘する。
同時に、金日成が夢見たように、韓国市民が北朝鮮を歓迎して一緒に韓国政府を打倒する「革命方式」はあり得ないとの見方を示す。「北朝鮮の人々も外部からの情報で、革命が可能だと信じている人はいない」と話す。「韓国を吸収する赤化統一路線は放棄しないが、現時点では経済制裁や新型コロナウイルスへの対応で忙しく、内政に集中せざるを得ない事情もある」と分析する。
開戦から71年も経った朝鮮戦争だが、北朝鮮の支配層は依然、自らの権力を正当化する根拠に据え続けている。「日本を朝鮮半島から追い出し、米国の侵略から祖国を守った」という主張だ。オ博士は「彼らには他に権力を維持する方法がない。古い話に頼るしかないほど、進歩がない政権だ」と語る。
オ博士は書籍で、北朝鮮の統治スタイルの代表例として独裁者による現地指導を挙げる。「中国など社会主義諸国がよく使う政治手法だ。人民に誰が指導者かをわからせるためだ」と語る。「金日成は人と会い、一緒に写真を撮るのが好きだった。金正日は暗殺を恐れていた」とも話す。実際、金正日総書記が市民の輪の中に入って、親しげに会話するという場面はほとんどなかった。
そして、金正恩総書記の場合、年々、現地指導の回数が減っている。会議や演奏会などへの出席や参拝を除く現地指導は、7月末時点でたった3回しかない。オ博士は「金正恩もストレスが多いだろう。成果もでないし、新型コロナへの懸念もある。現地指導への意欲が沸かないのかもしれない」と語る。
金正恩氏は最近、体重が減った模様だ。韓国政府は従来、約140キロだったが10キロ以上減らしたと分析。同時に「国民に負担を強いるなか、自ら痩せる必要があったのではないか」という見方が浮上しているという。正恩氏は4月の演説で「党組織を挙げて一層強固な(90年代に大量の餓死者を出した)苦難の行軍を行う決心をした」と語って強調。6月の党中央委総会でも「食糧事情が緊張している」と語っていたからだ。
オ博士は書籍で、金正日総書記が粗末な握り飯とスープだけで、現地指導を続けたと北朝鮮国営メディアが宣伝した事実も紹介した。ただ、博士は「金正恩に市民の苦労を理解する気持ちがあるだろうか。痩せなければ健康が保てないという判断があったからではないか」と語った。
また、オ博士は書籍で、2001年夏、列車でモスクワに向かう金正日総書記に、1カ月近くにわたって随行したロシアのプリコフスキー東連邦管区大統領全権代表の証言を紹介している。金総書記はフランスのボルドーやブルゴーニュのワインを楽しみながら、15~20種類の料理を少しずつ取り分けて食べたという。
北朝鮮では最高指導者ほどではないが、エリート高位層も恵まれた生活を送っているとされる。韓国の情報機関、国家情報院は8月3日の国会情報委員会で、米朝会談の前提条件として、北朝鮮が高級な洋酒と衣服の輸入解禁を希望している事実を明らかにした。平壌に住む高位層への配給用だという。
ただ、オ博士は「エリート層はむしろ、豪華な生活を送ることに慎重になっている」と語る。オ博士は、韓国に亡命して2010年に亡くなった黄長燁元党書記にインタビューしたことがある。黄氏の妻も金正日総書記の家庭教師を務め、「冬でもパイナップルを食べられる」豪華な生活を送っていたという。北朝鮮では自国でほとんど栽培できないミカンやパイナップル、バナナなどは「南方果実」と呼ばれ、一生食べられない市民も多いとされる。
でも、黄氏は「いつどこで、誰が見ているかわからない。北朝鮮では地位が上がるほど監視される。自分も24時間、監視されていた」と語ったという。オ博士は「いつどこで密告され、粛清されるかもしれない。高位エリート層はいつも緊張している」と語る。
そして、「緊張しているのは独裁者も同じだ。権力を奪われるのではないかと、いつも考えている。心は穏やかではないだろう。信じられるのは実妹の金与正氏くらいではないか」と語る。人脈と経験が不足する正恩氏は高位エリート層と共生関係にある。博士は「共生関係というほど甘い状況ではないのではないか。お互いが粛清を恐れ、緊張している状況だと思う」と語った。
Kongdan(Katy) Oh 1995年から2021年まで米・国防分析研究所のシニアアジアスペシャリスト。国際安全保障や日米同盟、朝鮮半島問題などに精通し、日米豪などの政府高官にブリーフィングした経験を持つ。