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ハイテクの国イスラエルで、戒律と伝統に生きる 「超正統派」とはどんな人たちなのか
「コロナは神の意思」ロックダウンでも集団礼拝、超正統派ユダヤ教徒の理屈とは
■スマホ革命の荒波の中で
イスラエルの商都テルアビブ。地中海沿いに高層ビルが並び、水着姿の男女がビーチを駆ける。欧米的な雰囲気が漂うこの街でツヴィカ・ラビノヴィッツ(40)は第二の人生を送っていた。
彼が育ったのは、エルサレムの厳格な超正統派の一家だった。朝から晩まで、宗教の勉強をして過ごした。映画を見た記憶は数回だけ。男女のシーンになると、親がタオルで画面を隠したことはよく覚えている。
18歳まで宗教学校イェシバに通い、ニューヨークや東京のラビのもとでも学びを重ねた。指導者になる準備を整えて帰国。20歳でお見合い結婚をした。
相手は18歳の女性だった。ホテルのロビーで会話を重ねたが、美人で元気で文句の付けどころはないと彼は思った。ただ、心のときめきはなかった。「愛はあとから生まれるものだ」とラビに説得され、結婚を決意した。
しかし、結婚生活は長続きしなかった。妻を愛するという感情が分からず、3週間で耐えられなくなった。心の奥にしまっていた疑問がうごめき始めた。「神は本当にいるのか。ラビの言うことも間違いだったんじゃないか」
同時に、神の存在を否定すると、自分に何も残らないことに気づいた。自らの根幹が崩れるような感覚を覚えた。ウォッカにおぼれ、うつ状態で地下室に1年あまり引きこもった。
母に離婚の相談をしたら、激怒された。離婚をすれば家柄に傷が付く。まして一家の長男が宗教を否定するようになったら……。弟が結婚するのを待って、家を出た。25歳のことだった。
「あの頃、私はかごの中にいる鳥のようだった」と振り返る。「黒と白だけだった世界が、もっと鮮やかなものだったなんて。外に出て、初めて知ることができた」
■「伝統」と「現実」の先へ
近年、こうして超正統派の社会から逃げ出す若者が増えている。特にコロナ禍により、この1年でその数は急増したと言われている。
コミュニティーから抜け出さずとも、伝統と現実に折り合いをつけて生きていこうとする人たちも出てきている。シュムリク・ズスマン(47)はエルサレムで弁護士として働く。頭にはベルベット生地の黒いキッパ。超正統派の証しだが、男性なのに仕事もしている。
午後5時になると、「勉強の時間だ」と言って、パソコンでオンライン会議システムZoomを立ち上げた。画面の向こうにはラビの姿。テキストとなるタルムードもオンラインで表示させ、毎夕恒例の勉強会が始まった。
本来は宗教の学びに一生を捧げるとされた超正統派の男性だが、実際には働きに出る人が増えている。イスラエル民主主義研究所(IDI)によると、2003年には37%だった男性の就業率は、18年には51%にまで増えた。
シュムリクは「本当は仕事をせず、聖書を学ぶのが理想。後ろめたい気持ちはある」と言った。宗教の学びに人生を捧げ、貧しい人生をいとわないことが美徳とされる考えもあるからだ。「でも海外旅行に行き、妻に買い物もさせたい。生活の質と宗教的な質のバランスを取りたいのです」。なんとも正直だが、気持ちはよく分かる。
変化をみせるのは男性だけではない。女性も近年は大学進学率が高まり、自立して社会の意思決定に関わろうとする動きも出始めている。超正統派の社会は、現代化の中で確実に変化の時代を迎えている。
■「パラレルワールド」に思う
「ここが革命の発信地です」。ガイド役のモティが取材の最後に、スマホショップが並ぶ街の一角に私を連れてきた。
スマホが1台あれば世界中の情報にアクセスできる時代になった。液晶画面の向こうには、ラビの発言とは矛盾する現実もあふれている。宗教指導者たちがテレビやインターネットをどんなに規制しても、情報化の波を止めるのは難しい。広い世界を知れば、若者の関心が外へと向くのは自然な流れだ。
スマホショップの前に腰掛け、行き交う人々を眺めてみる。店の前では「インターネット反対」と看板を掲げる中年の男性が無言で立っていた。その脇を無視するかのように、黒いスーツ姿の若者たちが騒ぎながら店内に入っていく。その光景は、情報化の荒波を前に、岐路に立たされた超正統派コミュニティーの現実を象徴しているようだった。
たしかに、伝統に固執して生きる超正統派は時代遅れだろう。でも、現代化の波に彼らをのみ込んでしまっていいのか、と疑問もよぎる。現代社会を目指して脱出する若者もいれば、少数ながら逆に宗教界へと救いを求める人もいる。少なくとも、超正統派の人々の多くはそこで幸せに生きているようにみえた。
思えば現代の「常識」ができたのだって、ここ数十年の話。グローバリゼーションによる世界の均質化も指摘されるなか、超正統派のコミュニティーがこの21世紀に存在している事実は貴重にも思えてくる。少しくらい、我々の常識が通用しない場所があっても、世の中いいのかもしれない。果たして100年後も、彼らはあの格好で聖地エルサレムを闊歩しているだろうか。(おわり)