この地域のイスラム教徒の女性の多くは、外出時はアバヤやチャドルという黒い民族衣装を羽織り、髪や顔を覆う。さらにひげの仮面、と聞いてもぴんと来なかった。着けている人を見かけたことがなかったからだ。
アラブ首長国連邦のドバイ文化芸術庁に相談して1カ月、やっと紹介してもらうことができた。ナワル・サァディさん(46)と母親のファティマさん(70)は、黒いアバヤに身を包み、顔に「口ひげ」を着けていた。きらきら光る緑、金、赤色の布地でできた仮面だ。
「初めて着けたのは16歳で婚約したときでした」。ナワルさんは初めは抵抗を感じ、叔母から贈られた一つめをすぐに捨てた。「仮面は嫁入りの象徴。ひげの形をしているのは、近寄らないで、結婚しているのよという男たちへのサインです。生活が激変するのが嫌でした」
二つめも破り捨てた。だが結局、三つめを受け入れた。外出時はもちろん、家でも夫以外の誰かがいる限り着用しなくてはいけない。最初は窮屈にも感じた。ところが数週間たつと、意識が変わり始めた。「もう私は女の子じゃない、大人の女性なんだ」。いつしか、ひげの仮面は彼女の誇りになっていた。
中東湾岸地域の仮面文化の調査を続ける研究者の後藤真実さん(32)によると、ひげの仮面には16世紀にイラン南部の島を占領したポルトガル人から若い女性を守るため、遠目に男性に見えるように着けさせたという伝承が残る。起源ははっきりしない。
1970年代以前の湾岸諸国やイランでは、仮面はもっと身近なものだった。女性が初潮を迎えるか結婚すると着ける決まりだったのだ。だが近代化が進み、ドバイなどでは仮面は「古い文化」と見なされ、わずかに残るだけだ。年を取って着け始める女性もおり、後藤さんは「年齢を重ねた日本人女性が着物を着始める感覚に近い」と話す。
いま、仮面を見直す新しい動きは、若い女性の間で起きている。インスタグラムに青や緑、赤の下地に花やツタの模様の美しいひげの仮面が映し出された。イラン南部のファテメ・ナジャフィプールさん(24)が市場で布や糸を仕入れ、手作りしている。きっかけは6年前、4歳上の姉に「披露宴で着けてみたい」と画像を見せられた。最初の作品をインスタグラムで紹介すると、「たくさんの人から『私も欲しい!』って連絡が来たんです」。注文はイラン全土から来るようになった。披露宴で使う女性のため、様々な色とデザインのひげの仮面を取りそろえる。
ドバイで会ったナワルさんは、ひげの仮面の下にコロナ対策の黒い使い捨てマスクも着けていた。2重のマスクで窮屈ではないのかと尋ねると、「もうマスクは当たり前の生活だから、一つ増えたぐらい何も気にならない」と笑った。一方で、コロナで男性も医療用マスクを着けるようになり、「男たちも顔を隠すの? って、正直笑ってしまった」。なるほど、そういう感覚を持つのだ。
女性たちがもう一つ教えてくれたのは「目」が持つ力だ。喜怒哀楽など、あらゆる意思表示は「目だけで十分」とナワルさんは言う。ためしに「怒」を求めると、仮面の間から射抜くような恐ろしい視線を投げ返された。
もともと中東地域では、目に美しい化粧をほどこす女性が多い。コロナで医療用マスクが義務づけられたイランでは、女性が「目ヂカラ」をさらに競っているようだ。化粧品店のニルファール・ナガシュさん(35)は、「マスカラ、アイライナーも含め売り上げはコロナ前より4割ぐらい増えた」と言う。
イランの都市部では頭部のおしゃれをする女性が多く、前髪を見せる人もいる。そんな中、全身を黒い布で覆う女性は域外の人から「無理やり着させられている」といったイメージで語られることも多い。でもザフラ・アリザデさん(35)は、「チャドルを着けると男性から不必要に視線や言葉を投げかけられることはない。医療用マスクも着けて、これまで以上に安心して出歩けています」と話す。
その自己表現や解放の感覚は、西洋の常識では捉えきれないものだと思う。市場やモールで目のやり場に困ることがある。レースがついた赤やピンク、紫色の女性用のセクシーな下着だ。そこには、ほかの女性に目移りしてほしくないという思いも込められているようだ。30代の女性が教えてくれた。「宗教に厳格な妻ほど布で全身を覆い、かわいらしさや色気を捨てなければならない。だからこそ2人だけの空間では思いっきり、愛する夫の前でおめかしをするんです」。ベールの向こうには、奥深い世界が広がっていた。