雪を冠した飯豊(いいで)連峰を望む福島県会津若松市。庄子(しょうじ)ヤウ子さん(73)の自宅の工房では、伝統の会津木綿を使ったクマのぬいぐるみ「あいくー」が次々に仕上げられていた。とぼけたような表情に、首には鮮やかな色のスカーフ。一番の特徴は、支えがなくても2本足ですっくと立つ点だ。
庄子さんは東電福島第一原発のある大熊町で、注文服を手がける腕利きのニット職人だった。事故直後、家族と着の身着のままで隣の田村市に逃れた。避難所では、夫のズボンの裾を上げる1本の針と糸すら手に入らない。それまでの日常との落差に悔しくて泣けた。会津若松市の避難所を経て6月、同じ市内にある仮設住宅に移った。
7月に2時間だけ帰宅が許された。庭は雑草に埋もれ、室内は動物に荒らされていた。水たまりでは高い放射線量が検出された。自宅は除染作業などで出た汚染土を保管する中間貯蔵施設用地となり、後に手放さざるを得なかった。
へこたれない。自立してやる。決意表明のように震災翌年に誕生したのが「あいくー」だ。大熊町のクマのマスコットをヒントに、型を起こして作り上げた。
名前は、手芸教室の教え子ら町出身の女性3人とつくった手芸グループ「會空(あいくう)」から取った。会津からふるさと大熊に続く空を意味する。
あいくーはパリの見本市で福島県ブースの「顔」を務め、大手化粧品会社や航空会社とコラボ。販売会を開けばファンが足を運んでくれる人気者になった。
暮らしは落ち着いたが、先祖代々の土地から切り離された喪失感は心に引っかかったままだ。でも「何か自分の存在を認めてもらえることをしたい。生活するってそういうこと」と庄子さん。ふるさとは地図から消えていくかもしれないが、あいくーを通じて自分たちの境遇や原発政策の是非に思いをはせてほしい。「あいくーには私たちのメッセージが乗り移っているんです。がんばろうよって」。そう言って手にしたあいくーにいとおしいまなざしを注いだ。
東日本大震災で800人以上の死者・行方不明者を出した宮城県女川町では、女性たちが支援物資の古Tシャツをかぎ針で編んだ布草履の制作販売を続けてきた。11月中旬、高台移転した同町小乗浜(このりはま)地区の集会場に顔を見せたのは岸サワ子さん(84)ら3人。普段は各自の自宅で家事の合間に作っている。
「10年続くと思わなかった」と岸さんはいう。震災当時、大津波は自宅の屋根を越え、岸さん自身も引き波にのまれた。流れてきた木材で胸部を打ち、低体温症に陥りながらも九死に一生を得て助け出されたが、集落は災害危険区域に指定され、移住を余儀なくされた。
狭い仮設住宅ではすることがなく、「寝て起きて、少し畑仕事をしたら一日が終わる」生活。そんなとき、隣の地区で「コミュニティスペースうみねこ」を主催する八木純子さん(56)が、手芸品の制作を提案した。仲間と手を動かし、小遣いも得られるものづくり体験が、日常を失った被災者の新たな楽しみと目標につながると、八木さんは考えた。
1足編むのに丸2日、Tシャツは6、7枚必要だ。Tシャツの素材に合わせて切り出す布の幅を変え、ペンチも使って引っ張りながら堅くしっかり編むにはコツがいる。1足2000円でオンラインや各地の生協で販売すると、半額の1000円が工賃として岸さんたち作り手に入る。年に数万円の工賃が支払われると、地元で水揚げされた新鮮なウニやサンマ、カキを親戚に贈る。喜ばれると、また贈りたくなる。「草履があってよかった。忙しくてすることがあるから元気になった」と岸さんはいう。
東北の被災地で2012年以降、100カ所以上の手仕事プロジェクトを取材してきたライターの飛田恵美子さん(36)は、「震災は、東北の人々が生きていく上で本来、励みになるはずの人間関係や楽しい思い出を、悲しいものに塗り替えてしまった」と指摘。その上で、「手仕事をすることで、心のよりどころなるものが生まれ変わったのではないか。自分が作ったものが喜ばれ、歓迎される経験が無力感や否定的な思いを打ち消したのだろう」と話した。(渡辺志帆)