――この作品では、“弱者を支える仕組み”としてニューヨークの教会で行われている慈善事業の様子も丁寧に描かれています。監督の故郷であるデンマークは、社会福祉が充実している国というイメージがありますが、監督の目にはアメリカの慈善事業はどのように映ったのでしょうか。
ロネ・シェルフィグ 実際にニューヨークの教会をいくつも訪ね、取材しました。教会の床にマットレスが敷いてあって、そこで身体を休めることができたり、食事を口にしたりできるような教会がニューヨークにはたくさん存在するんですね。本作に登場する主なキャラクターも、そこで出会った人々からインスピレーションを得ています。
確かにデンマークを始めとするスカンジナビア諸国は、“国が支える”という意識が強く制度が整っていますが、ニューヨークには格差が広がるなかで一人一人の生き方を共有していこう、という意識を持つ個人が多く存在している、と言えるのかもしれません。どちらが良い悪いではなく、マインドセットの違いなのかもしれないですね。
――暴力を振るっていた夫が警察官である、という設定はなかなかショックなものでした。
シェルフィグ DV被害を受けた女性たちが集まるニューヨークの施設を実際に訪れてみたんです。イタリア系の人もいれば中国系の人もいて、本当にさまざまな人種や職業の人々が集まっていました。そこでスタッフに、「DVを行う人のなかには、警察官のような仕事をしている人もいるのか?」と聞いたところ、イエスという答えが返ってきました。ただ、物語のなかでは、なぜクララが夫を好きになったのか、人物像を含め彼女が彼に恋をした理由みたいなものを観客に伝わるかたちで提示していきたいと思いました。一言に「暴力」と言っても、そのかたちはさまざまなんだ、ということは伝わるのではないかと思います。
――それにしても、クララが逃げ込んだ先はなぜ「ロシア料理店」だったのですか?
シェルフィグ 政治的な意味はまったくなくて、ロシア料理店でなくても良かったのですが(笑)、1900年代初頭からあるような、古くて温かい雰囲気の場所を舞台にしたいと思っていました。どこか“ニューヨークの秘密”のようなものを抱えた場所がいいな、と。
――クララは、自分ではどうすることもできない現実に直面したことで、他人に手を差し伸べてくれる人々に出会います。“不寛容の時代”と言われる現代でも、人々の優しさはすぐそこにあるのかもしれないということを改めて気づかされます。
シェルフィグ 私が若い頃はテクノロジーなど発達していなかったけれど、人と自由に関わることができて、そこに楽しさを感じることができた。それを肌で感じることができた、最後の世代なのではないかという思いもあるので、そうした価値観を次の世代に伝えていきたいという思いもありました。
いまはコロナウィルスが世界的に流行し、看護士たちが命がけで患者を助けようとしているという話も耳にするようになりました。まったく知らない人々と関わることがどれだけ大切なことなのか、その必要性のようなものを改めて感じることになったのではないでしょうか。
――今回の作品では、人々の人生が交差していく様子が描かれています。シェルフィグ監督のデビュー作となった『幸せになるためのイタリア語講座』も群像劇でしたが、群像劇だからこそ描けるものとはなんでしょうか。
シェルフィグ 主人公だけに寄った作品であれば、より映画としてのドラマ性が強調されたかもしれません。ですが、今回の作品は群像劇のようなスタイルにしたことで、それぞれのキャラクターをより深く探求できた、と言えるかもしれません。より細かいところまで突き詰めて描くことで、キャラクター同士が深いレベルで影響を及ぼし合うことができるようになるんです。どちらが良いとは言えませんが、今回の映画でいえば、友情を深めていく過程をより説得力を持って描くことができたのではないかと思います。
――ロシア料理店のマネージャーを演じるタハール・ラヒムはアラブ系フランス人で、中国のロウ・イエ、日本の黒沢清の映画にも出演するなど、国境を越えて活躍する稀有な俳優です。彼のような俳優と仕事をすることは、作品に何をもたらしたと考えますか。
シェルフィグ 彼のことは、『預言者』(2009年)を観て以来、ずっと仕事をしたいと思っていました。私自身がファンだったんですね(笑)。どこか尖っているところ、同時に彼の持つ人としての厚みは、人と人との間に生まれる“友情”を描く作品においてとても意味があるのではないかと考えました。ラヒムはアラブ系フランス人、そして彼の友人の弁護士を演じたジェイ・バルチェルはユダヤ系の俳優です。その二人が友情をテーマにした作品のために、一緒に現場にいる。そして、二人揃って雑誌のインタビューに答えている。その姿を見て、私はなんとも言えない喜びを噛み締めていました。