1月初め、北京市のスタートアップ、インファービジョンの最高経営責任者(CEO)陳寛(チェン・コワン)に湖北省武漢市の武漢同済病院から連絡が来た。
「人工知能(AI)でCT画像を読み取り、肺炎の疑いのある患者を素早く見つけることはできないか」
武漢市では原因不明の肺炎の患者が急激に増えていた。AIで肺炎の疑いがあるかどうかの判定を加速したいとの要望だった。
インファービジョンは医療AIのスタートアップだ。肺がんの診断を助けるシステムを中国の病院に納入してきた。武漢で出現した原因不明の肺炎患者のCT画像と、早期の肺がん患者のCT画像に写った症状に似ているところがあることを同済病院の医師は発見し、協力を求めてきたのだった。
肺炎は新型コロナウイルスが原因だった。1月20日、中国政府の調査チームを率いる医師の鍾南山が国営テレビで「ウイルスは人から人へ感染する」と述べた。陳は鍾と連絡を取り、新型コロナウイルスによる事態の深刻さを思い知った。陳は「すでに爆発的に広がっていた。患者数は増加し続けており、放射線科からすれば、プレッシャーがどんどん高まっていたのだろう」と振り返る。
肺炎と診断される人が増えるのに伴って、病院には院内感染のリスクが高まっていた。患者は長時間、診断結果を待たざるを得なかった。医療スタッフも家族も重傷の患者の世話を続けていた。肝心の医師が感染する例も少なからず発生していた。CT画像の判定時間が短縮できれば、来訪者の滞在時間を少なくできるうえ、感染の疑いがある人を迅速に隔離できるようになる。AIによる判定支援への期待が高まった。
陳は1月23日、オンラインで社内の開発者ミーティングを開いた。ちょうど春節休暇に入る前で、社員はすでに各地に帰省していた。だが、対応は急を要した。肺がん向けのシステムを、新型コロナによる肺炎の判定に応用するプログラミングを一斉に始めた。この頃、開発者が眠りに就くのは午前3時より遅くなることもあった。
おおむね1週間で開発が終わり、まず同済病院と広東省深圳市の第三人民医院が1月30日に導入した。大規模な感染が広がっていた武漢は1月23日に都市がまるごと封鎖され、市外からシステムを持ち込めなくなっていた。武漢に閉じ込められた数人の社員が意を決し、病院をまわってはサーバーを置き、システムをインストールし、医師に使い方を説明していった。「前線の医師に対する責任感が、勇気ある行動につながった」と陳。
肺炎AIの仕組み
インファービジョンの肺炎AIの判定システムは意外とシンプルだ。AIがCTスキャンの画像を読み取り、肺炎の症状が疑われる場所を警告する。医師は警告された部分を確認し、新型コロナによる肺炎が疑われるかどうか検討する。その後のPCR検査を経て感染者かどうかを最終的に判定する流れだ。
AIが警告を出すことによって、新型コロナによる肺炎の特徴を見慣れていない医師でも、重要な情報を見落とす確率が減らせる。インファービジョンにはすでに類似の症状がある肺がんの特徴に関するデータが十分にあり、はじめから高い精度で判定ができた。陳は「肺炎AIを使えば、多くの医師がよりよくこのウイルスを認識し、十分に対応することができる。だから我々のシステムは多くの医師に使われている」と話す。肺炎の進行状況の判定も助けることができる。
インファービジョンはすでに中国のすべての省・直轄市・自治区だけでなく、日米欧にも進出している。5月末までに50万件以上の新型コロナによる肺炎の疑いのある画像を読み取り、迅速な感染の判定に貢献してきた。
改革開放2世
陳は1988年1月、広東省深圳市で生まれた。父親は四川省の大学を卒業後、国によって緑化整備の仕事を割り当てられて深圳に。母親は広西チアン族自治区で大学を卒業後、深圳にやってきて教師を始めていた。82、83年のことだった。
大胆に市場経済を取り入れる「改革開放」で、人口3万たらずの漁村だった深圳は80年、経済特区に指定されていた。西側経済の砦・香港に隣接する湿地帯には、中国各地からビジネスチャンスを求める人材が続々とやってきた。陳が生まれる前年、この街では今や通信機器の世界大手となった華為技術(ファーウェイ)が任正非によって設立されている。
人々は山を切り開き、蛇を捕まえ、道をひいていった。市内を東西に貫く主要道の深南大道も当時は車が走っておらず、陳は友達とサッカーをして遊んでいた。改革開放の熱気が深圳を覆っていた時期、陳はほかにもバスケットボールやバイオリンをたしなみながら平凡な少年期を過ごしていた。「決して勉強はできたわけではない」とも振り返る。だが、その後はめきめきと秀才ぶりを発揮。シンガポールへの留学を経て、米国の名門シカゴ大に入学。経済と金融を専攻することになる。
2010年にここで出会った耳慣れない言葉が陳の運命を変える。
「ディープラーニング(深層学習)」
データを蓄積してコンピューター自身が学ぶことで賢くなるAIの技術だ。学内の討論で知った陳は「株価変動の予測に使える」と考えた。12年には中国人留学生の友人と実験をしてみた。米大統領選について民主党のオバマ氏と共和党のロムニー氏との対決の結果をツイッターのビッグデータからAIで判別し、オバマ氏の当選確率を算出するといった実験をしてみた。
経済学を学んできた陳はデータ分析や数理モデルが得意で、ビッグデータを駆使するAIのシステムにみるみる引き込まれていった。陳は「AIはとても価値を生むものだと思った。どの領域で役立つのだろうか関心を持つようになった」と振り返る。
漠然と浮かんだのは医療だった。陳の母親の実家は村医だった。曽祖父は白髪をたたえて白馬に乗り、家々を回って診察する「白馬の名医」と呼ばれていた。「我が家は医師の家系でもあるので、医療で何かができないかと思った」と話す。
頭に浮かんだのは中国の医療の現状だった。医療資源は限られていたが、人口が多く患者も多い。病院に行けば長い行列ができていた。一方、医師は医師で朝から晩まで数多くの患者を診なければならない。当然、診療の時間は限られ、患者は満足しない。医師と患者の関係は常に緊張をはらんだものだった。だが、AIで診断のスピードを速められれば、診察の機会も増やせる。「中国でのビジネス化こそが適しているのではないか」と思った。
確信に変わったのは、放射線科の医師が「顔認証はX線写真の診断に応用できないだろうか」と言ったのを聞いたときだった。顔認証はAIの画像認証を使い、顔の特徴をもとに本人かどうかを判別する。X線映像も患部の特徴から病気の特定に使えるのではないかと思った陳は「この領域は確実にAIに向いている」と考えた。
起業、家族は「頭がおかしくなったのか」
陳は14年12月に突然、シカゴ大学を休学し、深圳に帰って創業することにした。会社の名前は「インファービジョン」(中国名・推想科技)。AIで新たな構想(vision)を推論する(infer)という意味だ。
「起業する」と言って帰ってきた陳に家族は誰もが「頭がおかしくなったのでは」とあきれた。陳はその頃、ノーベル経済学賞を受賞した教官に指導を受け、経済と金融の両方で博士号を取ろうとしていた。それを自ら断念したのだった。だが、家族は創業資金として20万元(約300万円)を用立ててくれた。
陳の頭の中には「この機会を逃せば、うまくいかない」という危機感があった。「数年に以内にディープラーニングとAIが爆発的に普及すると感じた。いつかは具体的には予想できなかったが、それを座して待つわけにはいかなかった」という。
陳が照準を据えたのは肺がんの判定だった。命取りにもなる肺がんだが、早期に発見すれば小さな手術で済み、治る確率も高い。だが、早期の発見が難しく、見つかるのはたいてい時間が経ってからだ。肺がんのCT画像のデータを学習させたAIを使えば、肺がんを初期のうちに高い精度で見つけ出すことができ、治療できる確率も高まるのではないか。同時に、医師の負担も減らせて診察の機会も増やせる。
だが、陳の着想通りには進まなかった。データ集めが難航したのだ。陳が準備に入った15年、「ディープラーニング」という言葉を知っている医師はまずいなかった。陳はそんななか、半年かけて40もの病院をまわって自分の構想を説いた。だが、データの提供に協力してくれる病院は四川省成都市の病院1カ所だけだった。
だが、陳にとっては貴重な機会となった。病院近くの建物に拠点を構え、医師に一日中つきっきりになってデータを集め、最初のシステムのひな型を完成させた。成都は強烈なにおいがする火鍋が名物。病院の近くには火鍋店が4店もあり、陳は体中に強烈な火鍋特有のにおいがつきながらもデータ集めに励んだ。
シカゴ大学での学業を断念してまで賭けた予感は当たる。16年3月、世界は米グーグルの関連会社ディープブルーによるアルファ碁がプロ棋士、李世乭に勝つのを目撃した。アルファ碁を実現した技術がまさにディープラーニングだった。アルファ碁はその前後にも、名だたるプロ棋士を打ち破っていた。
そして、インファービジョンにとっても大きな転機となる。ディープラーニングを知った武漢同済病院や北京の名だたる病院が陳の展開するAIシステムに興味を持った。「この機会を逃してはいけない」と、陳は本社を深圳から病院の集まる北京に移したのもこの頃だった。システムの納入を始めると、「AIの能力は限られており、医師からすればAIは大きな意義はない」などと不信感を持たれた。だが、陳は地道にAIが診断を迅速にする効果を証明していくと、そうした批判もやんだ。
コロナ後を見据えて
陳は「創業してみてはじめて明日、何が起きるかもわからないということがわかった」と話す。「未来10年に起きることは基本的に予測できると思っていた」という大学時代とは認識は大きく違っている。「毎日毎日が新しい」と生き生きと話す陳の日常は今、多忙を極めている。新型コロナはインファービジョンに大きなビジネスチャンスをもたらした。
肺炎AIは国内各地で使われ、会社の技術に対する評価は高まった。だが同時にファーウェイやIT大手のテンセントといった名だたる巨大企業がこの業界に参入してきたのだ。
だが、陳はライバルの出現を「良いことだ」と見る。有名企業が進出したことで、インファービジョンがこつこつと手がけてきた技術に注目される機会ができたからだ。「まだヘルスケア分野でのAIの応用ははじまったばかりだ。市場に存在を知ってもらう必要があるし、秘めている可能性をより多くの人に知ってもらう必要がある」と話す。
ウイルスが世界に広がり、「我々の海外での発展は想像していたよりも早くなった」と陳は考える。現在、日本を含めて10以上の国に進出している。横浜港のクルーズ船で発生した集団感染への対応のため、肺炎AIのシステムを日本向けに用意した。すでに日本には3年前に進出し、大学病院や医療製品の研究開発企業と連携している。「日本は医療用撮影設備の配置率が世界で最も高い国家。AIを使って設備の効率を引き上げて、疾病を早期に発見できることができれば、日本にもたらせる価値は大きい」と話す。
「世界中の医師が診察に使ってこそよい技術だ。最初から自社をグローバル企業と定義していた」と、陳はさらなる海外展開に意欲を燃やしている。
インファービジョンにはセコイアキャピタルが投資していることで知られる。成功した中国企業に投資しているファンドだ。
現在、肺炎AIのシステムはほとんどの病院に無料で提供している。だが、投資家の投資を受けている営利企業である以上、課金のタイミングを探るのも今後の大きな課題だ。「長期的にはコストをまかなえ、研究を強めるのに十分な商業的な方法でいきたい」と陳は話す。
インファービジョンの視線はコロナ後の世界を見据える。陳は「どのようにコロナのような流行感染症にどう対応するかが大きな課題になる。我々の技術が次の流行感染症を予防するのに役立つことを願う」と言う。
(敬称略)