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日本植民地下、光化門撤去を止めた日本人の直筆原稿を発見

東亜日報より 更新日: 公開日:
①最近、東京の日本民藝館で確認された柳宗悦の光化門撤去に反対する直筆原稿、②柳の寄稿文を掲載した1922年8月24日付東亜日報の紙面、③日本が朝鮮総督府の建物を新築するために移動する前の1920年代初めの光化門とヘテ像

「仮に朝鮮が発展して日本が衰退し、日本が朝鮮に併合されて宮城(江戸城)が廃墟となり、代わりにそこへ広大な西洋風の日本総督府の建物が建てられ、あの碧の堀を越えて高い白壁がそびえる江戸城が壊されるのを想像してみよ」

日本人の民藝研究家、柳宗悦(1889~1961)が1922年、日本植民地下で光化門が撤去される方針に反対して東亜日報へ送った寄稿文のなかで、日本の事前検閲によって載らなかった内容だ。

国外所在文化財財団(チェ・ウンチョン理事長)は、柳が光化門撤去に反対し、1922年7月に作成した直筆原稿が、東京の日本民藝館で最近発見されたと7日、本紙に明かした。「今後失われる朝鮮のある建築のために」という題名のこの原稿は、1922年8月24~28日、東亜日報1面に5回にわたって掲載され、光化門撤去反対の世論を呼び起こす決定的契機となった。

直筆原稿には、日本の事前検閲によって新聞に載らず、同年日本の雑誌「改造」9月号に載った200字原稿用紙2枚の分量の内容も含まれていた。文化財庁文化財委員長を務める成均館大学のイ・サンヘ名誉教授は「光化門の美しさを追悼するかのような悲しい描写で撤去に反対した柳の文章は、当時の韓国人の琴線に触れた。日本は光化門を壊して朝鮮の象徴を抹殺しようとしていたのをやめ、光化門は元の位置ではないが移動して命は保たれることになった」と話す。

「君(光化門)をよく知っている人は発言の自由がなく、君を生み出した民族の間でも不幸なことに発言の権利を持てないでいる。しかしながら、沈黙のなかで君を葬ってしまうことは私にはとても耐えがたい悲惨なことだ」

柳の原稿は植民地の文化財の運命と国を奪われた者たちの苦痛に深く共感する絶唱だ。柳は日本が朝鮮に併合され、江戸城が壊されるなら「間違いなく日本のすべての人がこの無謀なことに怒りを感じるだろう。しかしながら、このようなことが今京城で、強要された沈黙の中で行われようとしている」と告発した。

柳は「私は君(光化門)を生んだ民族がその堅固な花崗岩の上を深く削って祈念する永遠の彫刻のように、君の名前と姿と霊を決して消えないように刻もう」と書いた。総督府の建物の新築については「何の創造の美も持たない洋風建築が突然この神聖な地に侵攻してきた」と批判した。

朝鮮総督府は1920年代、景福宮興禮門区域を壊して総督府の建物を建てるにあたり、その前をふさぐ光化門を撤去しようとし、結局1926年、景福宮の東側の建春門の北側に移動した。イ・サンヘ教授は「光化門がなくなっていたら、原形の復元は難しかっただろう」と話す。

国外所在文化財財団は2014、15年に日本民藝館所蔵の韓国の文化財を調査し、その後、東京芸術大学の関連研究を支援してきた。今回の調査に参加した日本民藝館の杉山享司学芸部長は「日本民藝館の学芸員たちも(柳の直筆)原稿の存在は知っていたが、検閲された部分を把握し、その意味を考察し、確認したのは初めて」と説明した。これに先立って財団は最近、東亜日報に当時の資料(柳の原稿)が存在するのかを問い合わせていた。

(2020年6月8日付東亜日報 チョ・ジョンヨプ記者)

(翻訳・成川彩)