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元特攻隊員、95歳のサッカーライター賀川浩に「五輪と国家」を聞いた

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「スポーツは勝敗がつく。負けは悔しいから、また努力する。戦争と違い、捕虜になるわけでもない」と語るサッカーライターの賀川浩=稲垣康介撮影

ナショナリズムの高揚は、間違った方向にいくと国同士がいがみあう戦争と結びつく。その点、五輪は国別対抗の趣を持つ「平和の祭典」だ。95歳のサッカーライター賀川浩は、第2次世界大戦中、特攻隊員として出兵中に終戦を迎えた。記者となり、サッカーのワールドカップ(W杯)を10大会現地で取材。その功績で国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞した。長年世界を巡ってきた大ベテランが語る、スポーツの価値とは何か。(敬称略、聞き手・構成=稲垣康介)

賀川にとって最初の五輪の記憶は1936年ベルリン五輪だ。

「僕らのような戦中派にとってはね、子どものころからスポーツと言えば五輪。ベルリンは2・26事件が起きた年でね。あの日は僕の住む神戸も珍しく雪が降ったからよく覚えてます。世相はガサガサしていたけれど、五輪は日本選手団が活躍して夢をもらいました」

1936年ベルリン五輪の開会式で、一斉に右手を上げて敬礼する観衆。ナチス・ドイツにとってベルリン五輪は国威発揚の大イベントだった=朝日新聞社撮影

戦争の足音が強まり、革製品のボールは配給制になった。「戦争に行って死ぬ気だった。どうせ行くなら飛行機にしようと試験を受けたら、視力が良く、運動神経もそこそこで合格した」。特攻隊として朝鮮半島に渡り、出撃前の1945年8月15日、玉音放送で日本の降伏を知る。戦艦武蔵に乗り、命を落とした学友もいた。

復員後、新聞記者となった。64年東京五輪で思い出深いのは、語り草の閉会式だという。

「記者席で見ましたね。各国の選手団がバラバラになだれ込んできてね。大会の緊張がほぐれた解放感が出ていた。あれには腰を抜かしたね。終わって喜んでいるわけだから。別れの寂しさを題材に原稿を書こうと思っていたのに」。国籍、人種、宗教などの違いに関係なく、楽しげな選手の笑顔が記憶に焼きついている。

1964年東京五輪の閉会式。日本の福井誠旗手を肩車して行進する各国の選手たち =朝日新聞社撮影

五輪憲章は「個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と記しながら、実際は国旗掲揚がある。

「まあ、国と国との競争は一つの単位ですからね、五輪でもサッカーのW杯でもそれが単位になる。それが面白いわけ。ナショナリズムをあおるのは良くないからとか、憲章でダメだと書いてあるからとか言ってもね、自分の村の一番速い子がね、隣の村の速い子に徒競走で勝ったらうれしい。それだけのことですよ」

東西冷戦時には旧共産圏が国威発揚の道具に使った負の歴史もあるが、「団地対抗でも五輪でも同じ。あまり目くじらを立てず、このまま続ければいいんじゃないですか」。

2021年への延期が決まった東京五輪についても聞いた。

「日本は戦争をしないと宣言した国ですからね。人間が持つ競争する本能をうまく推進力にできたらいい。スポーツは試合をすれば勝ち負けがつく。負ければしゃくにさわる。だからまた努力する。人を殺し合う戦争じゃないのがいいところ。昔は負けたら、皆、捕虜になったわけだから。戦争じゃなければ、負けても平気ですから」

言葉の端々に、平和な日常の尊さをかみしめたうえでの達観が感じられる。

東京・国立競技場=東京都新宿区、嶋田達也撮影

「五輪がイベントとして巨大になれば、注目度も上がり、政治的に利用する勢力が強くなる。国際オリンピック委員会も警戒はしているでしょうが、折り合いは簡単ではない。とはいえ、スポーツは本来、単純なもの。世界で一番人気のあるサッカーなんて、要はボールを蹴ってゴールに多く入れたら勝ち。単純明快な遊びは、ずっと続けた方が人類にとって得ですよね」

サッカーに魅せられた人生でたどりついた結論だ。