30年前、モルドバのドブローシュには約200人の村民がいた。それが2019年初めには、たった3人だった。
その後、2人が殺された。
いまや村に住む人間は一人だけになった。Grisa Munteanという背の低い、口ひげの農夫で、普段はハンチングに格子柄のシャツ、破れた青いズボンを腰ひもで結んだ格好で過ごしている。
相棒は2匹の猫と5匹の犬、それに七面鳥9羽、ガチョウ15羽、ニワトリ42羽、ハトが約50羽、アヒルが120羽、それから数千匹の蜜蜂。他の人間は、死んでしまったか、国内の他の大きな市や町に出て行ってしまったか、あるいはロシアや他のヨーロッパの国に移住してしまった。
「孤独は人を殺す」。最近、65歳のMunteanはそう口にした。ある日の午後だった。
かつて人が住んでいた近隣の家々は、その所有者たちと同じように早足で消えていく。家も建物もクルミの林やリンゴの木々に覆われて見えない。道路沿いを見ても、草を食べる動物の姿はほとんどない。草が刈り込まれているのはMunteanの果樹園だけだ。
ドブローシュは狭い谷間の村で、かつては低地部に並行して走る2本の道沿いに50軒の家があった。しかし、モルドバの多くの開拓地同様、1991年のソ連崩壊後、村は空っぽになった。東ヨーロッパ各地で起きた人々の集団脱出によく似た現象だった。東ヨーロッパは、世界で最も人口減少が加速している。
村に一番近い舗装道路につながる未舗装の道からは、波形のトタン屋根がほんの2、3軒分、伸びた下草から突き出るように見えるだけ。谷間の反対側にある墓地も、イラクサやキイチゴ、種々の草花やカウパセリ(訳注=セリ科シャク属の多年草)の中にゆっくりと埋没しかかっている。
Munteanには、こうした植物が最も身近な存在である。
「働いている時、俺は木と話をする」と彼は言った。「鳥とも、動物とも、道具とも話をする。他に話し相手はいない」
Munteanは19年2月まで、村のはずれに住んでいたGenaとLidaのLozynsky夫妻を頼りにしていた。2人とも40代前半だった。
Lozynsky夫妻はMunteanの小さな農地の作業を何かと手伝ってくれた。Munteanが卵や野菜を持って近隣地区のマーケットに出かける時には、留守宅を見守ってくれた。3人はほぼ毎日、少なくとも電話で話をした。
けれど2月のある日曜日、Munteanが電話をするとLozynsky夫妻は出なかった。翌日の月曜日も音信不通だった。火曜日になっても電話はかかってこなかった。何か彼らの気にさわることをしてしまった。Munteanはそう思った。
水曜日。情報を受けた周辺の地区長Grigore MunteanuがLozynsky夫妻の自宅を訪れた。区長が庭に入ると、夫妻が飼っていた乳牛がいた。乳房をみると数日間搾乳されていなかった。小屋の中に入ってみると、半裸姿の夫妻が、血まみれで冷たくなって床板に横たわっていた。
捜査で、夫妻が酔った労働者に殴り殺されたことが判明した。区長によると、夫妻を殺害する前に酔った労働者と仲間の農業労働者がLidaをレイプしようとした、という。
事件から半年。Lozynsky夫妻の自宅はほとんど当時のままで、床には服が散乱し、正面の窓辺には粉ミルクの箱が一つ残っていた。
庭はすでに草ぼうぼう。丘の上に埋葬された夫妻の墓も雑草が覆いかけている。2、3年もたてば、訪問者が来たところで、墓を探すのも誰が埋葬されているのか思い出すのも難儀だろう。Genaが埋葬されている盛り土には「Gheorghe」と、間違った名前が記されている。
いまやMunteanが最後の生き残りとなったドブローシュ村だが、最初の入植者が足を踏み入れたのは19世紀にさかのぼる。当時、この地はロシア帝国の一部だった。地元の言い伝えによると、初期の村民はウクライナ人とモルドバ人だった。ウクライナ人は米国を目指したが、ボートを逃してしまいドブローシュに居ついた。モルドバ人は以前住んでいた地の地主とけんかをして、移ってきたという。
村は、第2次世界大戦後の数十年間は栄えていた。当時、モルドバはソ連に統合されており(訳注=モルダビア共和国としてソ連を構成する15共和国の一つだった)、ドブローシュには商店も、小学校もあった。子どもたちのサマーキャンプも行われ、村役場では日曜日ごとに映画の上映会が催された。集団農場(訳注=コルホーズ。協同組合形式による農民の集団経営。主要生産手段は社会化され、生産は集団で行われ、収益は各自の労働に応じて分配された)は、すべての人に近くの小麦畑やブドウ畑、果樹園での仕事を提供した。
しかし、ソ連の崩壊で集団農場のシステムは衰退、農業の民営化が進んだ。モルドバでも、多くの人々が仕事を求めて村を出た。より高い給料を求めて、何千人もの人たちが集団で国を去った。Munteanは2000年、小さな牧羊場を立ち上げようと、近くの村からドブローシュに移り住んだ。彼によると、当時村の人口はすでに70人ほどまで落ち込んでいた、という。
東ヨーロッパ諸国の人口は1990年から2015年までの間に1800万人も減少し、約2億9200万人になった。モルドバでは、04年から14年の国勢調査で国内居住者が50万人減って280万人。国連開発計画(UNDP)の推計によると、モルドバ人の約4人に1人が国外で暮らしている。ドブローシュ村に残った人たちは、ほとんどが年金生活者だった。学校は1990年代末に廃止された。商店、キャンプ場、村役場も一緒に閉じられた。
「まるでゴーストタウンみたいな感じになった」。1939年に同村で生まれたValentina Artinは、当時を振り返って言った。「まるで荒野のようだった」
彼女は2012年、20人足らずの住民しかいなくなったドブローシュを捨て、孫たちと一緒に近くのVadul―Leca村に移り住んだ。その後、Ialii一家が去った。Petermans一家も去った。100歳近いOld Colea Masalkoskiが亡くなった。Gena Lozynskyの母Klavaも同じように他界した。
Munteanの妻は、彼を置いて出て行った。4人の子どもたちは、そもそもドブローシュ村に移らないままスペインに移住した。
16年までに、村民は3人だけになった。
羊まで出て行った。Munteanを手伝ってくれる人がほとんどいなくなり、彼は13年に牧羊をあきらめたのだった。Muntean自身、今では近くの町に移ることを考えている。
しかし、限りなく寂しいのに、平安と孤独な生活にはある種の愉楽があるとMunteanは言う。自分で野菜を育て、蜂蜜を採る。彼は自然の中で生きている。静けさを破るのは、彼が天国のようだと形容する谷間に響くガチョウたちの鳴き声だけだ。
それに、ニワトリ小屋や温室、壊れたラーダ(訳注=ロシア製の自動車)が並んだ先にある庭に座って、村の墓を見上げれば、そういつも孤独を感じるわけでもない。
「Genaはいつも俺を見守ってくれる、と言っていた」とMuntean。
「だから今、彼は俺を見ている」(抄訳)
(Patrick Kingsley)©2019 The New York Times
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