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古代、神々は怒り狂っていた 現代は実は「怒れない時代」

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ジャックルイ・ダヴィッドの「セネカの死」(1773年)。セネカは古代ローマで、随筆『怒りについて』を著した

人類とともに怒りの歴史もある。宗教学者の島田裕巳(65)は「昔の人の方が、怒りをすごい力を持つ何かとして捉えていた」とみる。「日本でも古事記などに出てくる神は激しく怒った。神を祀るのは怒りを鎮めるためだった」

江戸時代に武士がサラリーマン化すると、怒りや暴力は簡単に振るってはならないものに変化した。明治時代になると、権力側が民衆の敵国への怒りを利用して、戦争に突き進んで行ったという。

ところが現代は「怒れない社会」だと島田は言う。社会が豊かになり、家制度の重圧や社会的な縛りも少なくなった。パワハラに遭えば転職という選択肢もある。「逃げ道はいくらでもある」。また、うかつに怒ると一生を台無しにしかねないという個人の計算も働く。「人間の精神性がこの30年ほどで格段に変わった。他の先進国も同様だ。怒りのあり方も根本的に変わった」と指摘する。

怒りの表現方法も変わったとみる。直接的に個人の怒りを表明するのではなく、「象徴的行為」を用いると指摘。2015年に仏週刊新聞「シャルリー・エブド」の事務所が襲撃された後、「私はシャルリー」を反テロの合言葉にしたり、18年に仏全土に広がった反政権運動で「黄色いベスト」を着たりしたことを挙げる。島田は言う。「スローガンに共感しているだけで、直接的な怒りは出せなくなり、怒りの内実がない」

さらに「グローバル化で全てがつながり、個人の自由の領域が狭まっている。世界が安定を求めるなか、人びとはそうした社会に反抗できず、飼いならされていく」

一方、元仏レジスタンス闘志のステファン・エセルが2010年、93歳で発表した冊子『怒れ!憤れ!』は世界35カ国で計450万部以上を売るベストセラーになった。そのなかでエセルは、「たしかに今日の世界では、怒る理由が昔ほどはっきりしなくなっている。言い換えれば、世界はあまりに複雑になった」としつつ、無関心でいると「人間を人間たらしめている大切なものを失う。その一つが怒りであり、怒りの対象に自ら挑む意志である」と指摘した。

彼の主張は11年のスペインの「インディグナードス(怒れる者)」運動や、12年の反格差運動として全米を席巻したオキュパイ・ウォール街運動に影響を与えた。

歴史を遡ると、仏革命や米独立戦争なども民衆の怒りが発火点になり、社会変革の駆動力になった。一方、自爆テロなども一種の怒りの表出だとする見方もある。

また古代の神々の怒りも激しかった。アテネ大学歴史考古学科の准教授、ディミトリス・プランゾス(54)は、古代からの最も有名な怒りとしてホメロス(前8世紀ごろ)の叙事詩『イリアス』冒頭に記された「アキレウスの怒り」を挙げる。『イリアス』はトロイヤ戦争10年目に生じたアキレウスの怒りと、それによってもたらされた出来事などが描かれた作品だ。トロイヤ戦争でも、実に多くの神々の怒りが交差する。プランゾスは「ギリシャ悲劇で怒りの結末は不幸だが、現代でも行きすぎた怒りは不幸をもたらす」と話す。

旧約聖書にも神の怒りが記されている。人間の堕落に怒った神が、洪水を起こしてノアとその家族、動物たちを除いて滅ぼそうとしたノアの方舟がその一つだ。

一転して、ローマ時代に怒りを考察したのは哲学者セネカ。皇帝ネロのブレーンとして支えたが、後に謀反の疑いで自殺させられた。セネカは随筆『怒りについて』で、「怒ることは所詮無益なこと」「しばし我慢するがよい。そら、君たちを同等にする死がやって来るではないか」(岩波文庫、茂手木元蔵訳)と説いている。(丹内敦子)

■一揆は「団交」だった

抑圧された民衆の怒りが爆発。そんなイメージがある日本の「一揆」だが、『一揆の原理』『応仁の乱』などの著者で歴史学者の呉座勇一(38)は、異なる見方を示す。

中世には一向一揆など武力衝突もあったが、江戸時代の百姓一揆は武器を持たず、農民の象徴であるクワやカマを掲げるだけで戦闘は想定していなかった。現代でいえば、労使の団体交渉に近いものだったという。

なぜ、貧しい農民が蜂起し、支配者と戦うというイメージがあるのか。「戦後、『マルクス主義歴史学』が主流となり、一揆を『階級闘争』『革命』と位置づけたからだ」と呉座は指摘する。だが実際には、体制転覆をめざす革命的なものはほとんどなかった。

江戸時代の大名は、幕府から藩をあずかる立場にすぎない。大名にとっては、一揆が起こること自体が落ち度で、武力弾圧に発展すればその責任を問われることになる。このため大名は穏便な解散を望み、民衆側も落としどころを探った。

そもそも日本は、民衆の側に権力への信頼や依存の意識が強いという。「矛先が最高権力者に向かい革命にまで発展する欧州に対し、日本はトップそのものは批判しない。百姓一揆も、悪いのは庶民の苦しみを伝えていない家臣であり、一揆で大名に窮状が伝わるようにしよう、という論理だ」

ただ、民衆の怒りが独裁政権を打倒した「アラブの春」と、一揆に共通項もあるという。それは「つながり」。アラブの春にはデモ指導者はおらず、SNSでつながって反政府運動が盛り上がっていった。一揆も、大衆闘争ではなく、他人とつながることに本質があったというのだ。(星野眞三雄)