ナイル川の最下流域カフルシェイク県。首都カイロから北へ車で4時間以上かかる。ナイル川の支流を使った運河の終点に行くと、底を掘り返して盛った土手が白いもので覆われていた。塩だ。
エジプトのような乾燥地では、雨がほとんど降らない。農業用水や地下水には塩分が溶け込んでいるので、灌漑した農地の地表からの蒸発量が多いと、塩を残してしまう。しかも、ここのようなナイルデルタの下流では、水量が作物栽培に十分でない。農地からの排水を農業用水に再利用するうちに、さらに塩分濃度が高まる。
小麦やサトウキビを育てる畑の脇に、白い塩が見える土が積まれていた。なめてみようかと思ったが、ゴミや化学肥料がまざっていることを考え手が止まった。
農業・土地開拓省に勤める灌漑と排水の専門家、ハサン・アブデルバキー(30)は、乾いた土の塊を指でつぶしながら「塩分をたくさん含んでいるので、すぐに砕ける」と話した。
さらに北上すると、塩分濃度が高すぎて農業には適さないため、土地が養魚場に変えられた地域もあった。一度塩分を含んだ土地はなかなか元に戻せない。
なぜ、こんなことになったのか。地元の人たちは、19世紀に造った「せき」と、1970年にできたアスワンハイダムの影響が大きいという。以前はナイル川が定期的に洪水を起こし、それを利用した伝統的な灌漑が流域に肥沃な土をもたらしていた。ダムのおかげで洪水はなくなり、水力発電による電力をもたらした一方、土は徐々に疲弊し、肥料を大量に投入しなければならなくなった。
さらに急激な人口増加が追い打ちをかけた。エジプトの人口は今年、1億人を突破するといわれる。エジプトは世界有数の小麦輸入国だ。政府は砂漠の農地開発を進めており、それにはナイル川の水が大量に必要となる。最下流域に回る水が少なくなり、塩害を加速させているともいわれる。
政府は昨年、多くの水を必要とするコメの作付けを減らす法律を作り、罰則を定めた。ところが今年に入って、突然撤回した。農政も迷走する。
エジプトではずっと、人々は国土の4%ほどしかないナイル川沿いの土地に住み、その恵みに頼って生きてきた。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教の熊倉和歌子(39)によると、12世紀の土地文書には、すでに土の肥沃度と水はけを考慮した「地力」が記されていたという。
エジプトの土は大部分が「砂漠土」だが、ナイル川のデルタ地帯は「ひび割れ粘土質土壌」だ。 カイロから北に車を走らせること約60キロ。ミヌフィーヤ県に来ると、「農民の友達」という別名を持つ白い鳥たちが虫をついばんでいた。
村には、ナイル川から水を引いた用水路が通る。畑では小麦は黄金色に実り、レタスやキャベツは大きく成長していた。1万2000平方メートルの土地を持ち、長年農業に従事しているラムジ・シャラビ(51)は「ナイル川の肥沃な土が積もっている」と笑顔を見せた。
足元の土を手に取ると、茶色くぱさついていたが、水をかけると粘土のように軟らかくなった。
このあたりは、最下流に比べれば水が豊富だ。ポンプでくんで、農地に流し込む。「ナイルの賜物」が完全に消えたわけではない。
世界四大文明のひとつに数えられるエジプト文明は、ナイル川と流域の土地に支えられてきた。人口増加や水不足で、その土に疲れが目立ってきたのは、悠久の歴史の中で、ごく最近になってからだ。
政府系シンクタンクのアハラム政治・戦略研究センター研究員アマーニ・タウィール(59)は「ナイル川流域のデルタは5000年以上にわたって人々を養ってきたが、いまや、やせて疲弊してしまった」と嘆いた。
やはり四大文明のひとつメソポタミア文明も、大河が運ぶ豊かな土で栄えたが、人口増に伴う森林伐採による土壌侵食や塩害が滅亡の原因になったといわれる。
こうした状況に、エジプト政府は力ずくで立ち向かおうとしている。疲弊したデルタ下流地帯に固執することなく、砂漠に農地を広げようというのだ。
カイロから約60キロ北東の砂漠地帯に車を走らせると、スプリンクラー灌漑が施された大規模な農地でジャガイモや小麦が栽培されていた。土はさらさらとして黄色い。砂漠の土そのものだ。50年余りで約60万ヘクタールを新たに開墾。更にシナイ半島やアスワンより上流の砂漠計49万ヘクタールの開発計画もある。
耕す人は確保できるのだろうか。タウィールはいう。「エジプト人は仕事や糧を求めて、移動を繰り返してきた。道路が整備されれば、塩害に悩む農民は新たに開墾された砂漠に移動するだろう」。隣国スーダンやエチオピアでも、農地の確保を目指す。
エジプトの砂漠地帯で進んでいる、もう一つのプロジェクトがある。
【次の記事を読む】不毛の砂漠に超高層ビルも エジプトの首都機能移転は「現代のピラミッド」か