4月17日、台北のベッドタウン、新北市板橋区にある道教の「慈恵宮」は、詰めかけた報道陣でごった返していた。居並ぶテレビカメラのレンズの前で、サングラス姿の長身の男性がマイクを握り、語りはじめた。「媽祖から、金もうけではなく、民衆のために働き、若者に希望を与えよと告げられた」
男性の名は郭台銘氏(68)。iPhone(アイフォーン)などの製造を請け負う受託生産の世界最大手「鴻海(ホンハイ)精密工業」の創業者であり、会長だ。日本では、経営不振に陥った家電メーカー「シャープ」を2016年に買い取ったことで広く知られる。
この日、媽祖がまつられた慈恵宮に参拝した郭氏は、「神のお告げ」を引き合いに、来年1月に行われる台湾総統選へ出馬する意欲を明らかにした。その後、野党国民党本部に向かい、公認候補を目指して予備選へ参加すると宣言。ニュースは、世界中に配信された。
板橋区は、郭氏の故郷だ。少年時代、郭氏の一家は慈恵宮の境内に間借りをして暮らしていたこともあるという。現在は台湾で一番の富豪だが、信心深いことでも知られる郭氏は、総統選に挑戦するという大きな決断を前に、ふるさとのお宮に報告にやって来たのだ。
媽祖は、そもそもは航海の安全をつかさどる神だ。中国大陸の沿海部で信仰の対象となってきた。台湾の人々の祖先の多くは、かつて対岸の中国福建省などから船に乗って渡ってきた。無事に新天地にたどり着いた人々にとって、媽祖は守り神であり、台湾の各地にお宮が建立されている。
郭氏の「お告げ」発言は、信仰心あつい台湾社会ならではと言える。だが、世界企業のトップであり、総統を目指す郭氏の口から飛び出したため、違和感を抱いた人も多かったのだろう。この言葉は、台湾で波紋を呼んだ。
「民主主義から『王権神授説』に逆戻りだ」
「占い頼みの候補には投票しない」
発言が報道されると、フェイスブックなどSNSに多くの批判が書き込まれ、注目の話題に。公認候補になれば、選挙戦でライバルになるかもしれない蔡英文(ツァイインウェン)総統も、「神に聞かず、民衆に顔を向けるべきだ」と、郭氏に苦言を呈した。
実際は、目くじらを立てて反論する問題ではないのかもしれない。ただ、台湾の人々の心に引っかかったのは、だれもが慕う媽祖を、自分の選挙に利用したように映ったことだろう。「あなた一人だけの媽祖ではないでしょ」と疑問を抱いたのだ。
実は、郭氏が立候補を表明した前日まで、台湾で最大級とされる媽祖の祭りが行われていた。中部の台中市大甲区にある「大甲鎮瀾宮」の伝統行事で、媽祖の像を載せた神輿(みこし)が9日間かけて約330㌔を巡礼する祭礼だ。
行程は、台中市だけではなく、周辺の彰化県、雲林県、嘉義県にもまたがり、例年、台湾各地から約100万人が参加している。郭氏の発言は、ちょうど台湾の人々が、心の中に媽祖の存在を感じていた時期と重なった。だからこそ、人々は反応したのだ。
郭氏の表明の1週間前、記者の私も、雲林県の巡礼の一部に参加した。無病息災を祈って、練り歩く神輿の下をくぐるのが習わしだ。沿道の人々が、次々と路上にひれ伏すのにならい、私も路上にしゃがみ、神輿が通り過ぎるのを待った。
巡礼の様子を撮影していると、地域の高校生らが声をかけてきた。学校ぐるみの一日参加で、出会った人々から話を聞き、相手の写真を撮るのが宿題なのだという。媽祖に「成績がよくなりますように」と祈ったという1年生の卓亭妤さん(16)らと互いに写真を撮り合った。
全行程の巡礼を目指している人にも出会った。この日は3日目。夫とともに参加した蔡秀岱さん(50)は、「平安と幸福、息子の結婚」を祈り、歩いているという。媽祖に抱く思いを聞くと、蔡さんは、「台湾の母親のような存在です」 と答えた。
巡礼に合わせ、沿道の住民が参加者に飲み物や食料などを無料で提供することが習慣になっている。日本のお遍路さんの「お接待」と似ている。参加した日の雲林県の気温は32度。路上で配られたスイカがのどを潤してくれた。
一緒にスイカをほお張りながら話を聞いた、台湾東部の宜蘭県から参加した張亜建さん(65)は、その後の郭台銘氏の出馬や発言を予期したかのようにこう語っていた。「台湾の政治の世界は混乱しているが、媽祖の前では台湾人は争わず、助け合い、前に進むことができる。そんな政治が実現してほしい」