1. HOME
  2. People
  3. ハッブル宇宙望遠鏡を生んだ「母」、93歳で死去

ハッブル宇宙望遠鏡を生んだ「母」、93歳で死去

ニューヨークタイムズ 世界の話題 更新日: 公開日:
1962年に太陽観測衛星の模型を手にするナンシー・グレース・ローマン=NASA via The New York Times/©2018 The New York Times。大気圏外で太陽からの光線を観測するために、NASAが1962年から75年にかけて打ち上げた

ハッブル宇宙望遠鏡(Hubble Space Telescope〈略称HST〉)。地球の大気の影響を受けない宇宙からはるかかなたをのぞき、数々の成果をあげている。その生みの母、ナンシー・グレース・ローマンが2018年12月、米メリーランド州ジャーマンタウンで亡くなった。93歳だった。

ローマンの宇宙とのかかわりは、11歳のときに始まった(訳注=1936年)。ネバダ州北西部のリノに引っ越して星空の素晴らしさに魅せられ、友人たちと天文クラブをつくった。

そして、米航空宇宙局(NASA)の初代天文学長となり、女性として初の執行役員になった。特筆されるのは、HSTを開発した初期の責任者として力を尽くしたことだ。実際の打ち上げは、1990年4月。その努力は、自身がNASAを退いてから、ようやく実を結んだ。

HSTの名は、先駆的な米天文学者エドウィン・ハッブルに由来している。有人のスペースシャトル・ディスカバリーから、宇宙空間初の大型望遠鏡として放出された。地球の大気によるゆがみがないため、太陽系にある惑星や、さらに遠く離れたいくつもの星雲の映像を鮮明にとらえることができる。おかげで、関連の情報量は飛躍的に増大した。

こうした宇宙望遠鏡を周回軌道に乗せることは、科学の世界では米国の理論天体物理学者ライマン・スピッツァーが1946年に提唱してから検討されてきた。しかし、その実現可能性やコストについては疑義も多く、実現までに長い時間を費やすことになった。

ハッブル宇宙望遠鏡=REUTERS/NASA/Handout

事業を議会に訴えるための重要文書の作成。米予算局への持ち込み。「インターネットやグーグル、電子メールなどが登場するよりはるか前に、HSTの売り込みに尽力し、天文学者の意見をまとめ、予算権限を握る議会の説得にあたったのはナンシーだった」。NASAでHSTの開発をローマンから引き継いだエドワード・J・ワイラーは、11年にボイス・オブ・アメリカにこう語っている。

ローマンはHSTだけでなく89年に打ち上げられた宇宙背景放射探査機(Cosmic Background Explorer)の開発にも携わった。こちらは、宇宙の誕生に関するビッグバン理論を裏付ける観測結果をもたらしている。

科学は男の世界とされていた時代に、ローマンは女性科学者の草分けとなり、後に続く女性たちの背中を押してきた。

「高校の進路指導の先生に、ラテン語の5年目の授業の代わりに、代数の2年目をとる許可を求めたときのことを今でも思い出す」とローマンは後にボイス・オブ・アメリカに話している。「『ラテン語ではなくて数学をとるレディーなんているのかしら』とさげすまれた。その後も、いろいろな場面でほとんど同じような扱いをされた」

1925年5月16日、地球物理学者の父アーウィン・ローマンと音楽教師の母ジョージア・ローマン(旧姓スミス)のただ一人の子として、テネシー州ナッシュビルに生まれた。生後3カ月で一家はテキサス州に引っ越し、その後、オクラホマ州に移った。父は、石油などの採掘の見通しを立てる会社顧問として働いていた。

ネバダ州リノに越してきたのは、父が地球物理の調査・研究にかかわる米西部地域の責任者としてのポストを得たからだった。

「空は澄み渡り、天体観察にはうってつけのところだった。街のはずれに住んでいたので、観察環境はなおさらよかった」。米国立スミソニアン航空宇宙博物館のインタビューを80年に受けたローマンは、こう回想している。「周りには光源がほとんどなかった。近所の女の子たちと天文クラブをつくり、星座について勉強し、天文学の文献を読んだ。私の天体への関心は、それから失せることがなかった」

ハッブル宇宙望遠鏡などがとらえた「かに星雲」の合成映像=NASA,ESA,NRAO/AUI/NSF and G.Dubner(University of Buenos Aires)/Handout via REUTERS。おうし座領域にある超新星の残骸だ(見た目に由来した星雲の名称で、「かに座」とは関係ない)

一家はその後、メリーランド州ボルティモアに移り、ローマンはここで高校に通った。46年に名門スワースモア大学で天文学の学位を修めた。49年にはシカゴ大学で天文学の博士号を取得し、大学所属のヤーキス天文台の研究員になった。さらに、米海軍研究所で電波天文学の専門家として働いた。

NASAに移ったのは1959年。発足してまだ1年の組織に転進した。そのときのことをローマンは、先の国立航空宇宙博物館のインタビューでこう振り返っている。

「今後の天文学に、50年は影響を与えるだろうと思うほどの事業だった。その立ち上げに、まっさらの経歴でも挑むことができる魅力には、抗することができなかった」

折しも、米ソの競争が宇宙でも始まっていた。ソ連は、世界初の人工衛星スプートニクを57年10月に打ち上げ、地球を回る衛星を飛ばすことができることを実証した。

にもかかわらず、ローマンがNASAで始めた初期の仕事は、さほどの脚光は浴びなかった。60年代に入って幕が開けた華々しい有人宇宙飛行の時代。ジョン・F・ケネディ米大統領は、60年代のうちに人間を月に送り込むことを目指した。一方のローマンの取り組みは、そんな魅力と輝きには欠けていた。

それでも、HSTの事業から身を引くことはなかった。79年にNASAを引退。顧問として残り、打ち上げに向けての仕事を続けた。

組み立てブロック遊具のレゴ社が、17年に231個のブロックからなる「NASAの女性たち」セットをつくると、「宇宙のパイオニア」のモデル4人のうちの一人に選ばれた。

晩年のローマンは、宇宙研究への愛着を若い世代に伝えることに熱心だった。とくに、少女たちに科学の仕事を目指すよう促した。1990年代の後半には、首都ワシントンのシェファード小学校で、5年生に天文学をやさしく教えた。

「学校で教えるのが好きな理由の一つは、女の子たちも科学者になれると説得できる場になったから」とその心中を語っていた。「やってみなさい。きっと、面白くなるからってね」(抄訳)

(Richard Goldstein)©2018 The New York Times

ニューヨーク・タイムズ紙が編集する週末版英字新聞の購読はこちらから