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公務員の半分が外国人 カタール政府機関で広報を担う日本人、福嶋タケシ

私の海外サバイバル 更新日: 公開日:
福嶋タケシさん=本人提供

私のON

2010年からは現在の広報の仕事をしています。毎朝、職場に着いたら、まずアラビア語新聞5紙と英字新聞3紙すべてにざっと目を通し、職場に関係するニュースや注目するべき記事を切り抜いて、まとめるのが日課です。日中は政府の幹部が各地を視察したり、海外の要人と会ったりした時に、写真を撮影するのが主な仕事です。政府専用機で海外出張に同行するなど、通常では味わえない経験をできるのも魅力です。現地の新聞は、主要なイベントや記者会見は自分たちでも撮影しますが、なぜか私が撮影した政府提供の写真を使うことが多いですね。

撮影した写真はカタール各紙に掲載されることが多い=福嶋タケシさん提供

外国人が国家公務員というのは意外かもしれません。こちらは管理職はカタール人ですが、その下の職員はエジプト人、スーダン人、インド系など外国人が多く働いており、約2000人の職員が働く私の役所でも外国人が半分ほどを占めます。さすがに日本人は私1人ですが、お互いの国のことを話したり、片言でも色んな国の言葉を覚えたりする楽しさがあります。

こちらは金曜と土曜が週末にあたるので、勤務は日曜から木曜まで。時間は午前7時15分から午後1時15分です。公務員などは1日6時間しか働きませんし、仕事のストレスはほとんどありません。

勤務する役所の広々としたオフィス=福嶋タケシさん提供

いまはアラビア語に不自由することは、ほぼありません。しかし、30歳手前でアラブ首長国連邦(UAE)に初めて留学した時は、「こんにちは」「ありがとう」の二言しか知らない状態でした。

私がアラブ世界に漠然とした興味を持ったのは、バブル景気の時代に大阪の私立大に入り、目的もなく過ごしていた時でした。ちょうどイラクのクウェート侵攻や湾岸戦争など中東で大きなニュースが続き、テレビを通して、いまだ民族衣装を着た人々の、日本とはまったく異なる世界があることに興味を覚えました。
大学の卒論で中東の政治をテーマに選びました。卒業後は神戸で建物管理の仕事をアルバイト的にしていたのですが、そこで1995年の阪神大震災に遭いました。

実は大学を卒業してすぐ、私は神戸モスクでムスリムになっていたのです。アラブではまず宗教について尋ねられると聞いていました。だが、自分は「仏教徒」と答えられるだろうか??。そんなことを考えて、いっそムスリムになろうと思ったのです。とはいえ、それまで外国人と接する機会すらなく、神戸モスクには来たものの、建物の前をウロウロしていて、不審に思ったイマーム(指導者)に声をかけられ、やっと中に入るというあり様でした。

その神戸モスクには震災後、100人以上の外国人が避難していました。そこで私は仕事が終わった後、食事の手伝いなどを住み込みでしていました。地域で暮らすムスリムの外国人と暮らしたこと以上に、この震災で「人は何で死ぬか分からない」という思いを抱いたことが、後の人生に影響したように思います。

その後、実家がある堺市の町工場で働くようになりました。アラブとは関係のない仕事を続けながら、「30歳までにチャンスがなければアラブで暮らすという夢は諦めよう」と心に決めました。その30歳という区切りが見え始めたころです。日本アラブ首長国連邦(UAE)協会という団体が、UAE大学への留学生を募集しているのを知人から聞いたのです。神戸の外国人とは英語でコミュニケーションしていたので、何とか英語でやっていけると思っていたのです。応募者が少なかったのでしょう。98年の大みそか、合格の知らせが届きました。

大学の寮に着いてショックを受けたのは、英語を話せる人がまったくいないことでした。学生はわりと英語ができるのですが、私が着いたのは週末で、学生たちは実家に帰っていませんでした。往復航空券をもらっていたので、学校が始まって関係者に迷惑をかける前に「もう帰ろう」と思いました。ただ、頼りにしていた現地の日本人駐在員に電話する方法さえも分からず、そのままズルズルと留学生活が始まりました。

授業はすべてアラビア語だったので、もちろんまったく理解できません。学長室に頼み込んで、言葉のできない留学生のためのアラビア語講座を開設してもらいました。

私は聴講生という立場でしたが、大学にまともに通っていたのは1年目だけでした。2年目からは、大学近くの住人と仲良くなり、彼の親戚が営んでいるラクダ牧場に入り浸っていました。アラブの社会は「部族」が大きく影響しますが、このラクダ牧場に「本家」のおじさんが遊びに来たことがありました。このおじさん、実はカタール政府のお偉いさんで、友人が私の仕事の世話を頼んでくれたところ、私は彼のいる役所に就職できたというわけです。

いま私がカタールでこうして仕事ができているのも、半分以上は運と人間関係だと思っています。海外で長く生活している人は、だいたい同じような思いを持っているのではないでしょうか。

私のOFF

高層ビルが並ぶドーハの街並み=福嶋タケシさん提供

私が暮らすドーハは、湾を中心とした約130平方キロの街です。湾に沿ったエリアの北半分は官庁街で、南半分が「スーク(市場)」をメインとする旧市街、そこから外側に広がるように住宅街や多くのショッピングモールが並んでいます。2022年にはサッカーW杯が予定されていて、スタジアムの建設や道路の拡張工事も行われています。

スークと呼ばれる伝統的スタイルの市場の外観=福嶋タケシさん提供

深夜になっても大勢の家族連れが海沿いの遊歩道や公園を歩いていて、身の危険をほとんど感じることがない安全な国です。ただ、道路の構造が自動車最優先であること、夏場の気候が厳しく徒歩での移動が困難なことなどから、どこへ行くにも車が必須です。私としては、散歩しながら撮影を楽しむことができない、歩く速さで写真を撮れないことが最大の悩みです。

ドーハの街は車がなければ移動が難しい=福嶋タケシさん提供

11月以降の涼しい季節になれば、土曜日の午後から妻と二人で海へ出かけるのが定番です。カタールの海はどこも遠浅で泳ぐには適さないため、砂浜でシートを広げて家族でピクニックをしている光景をよく見かけます。私たちも同じように海を眺めながら、遅めの昼食をするのが目的。そのまま波の音を聞きながら昼寝をすると最高です。

スーク(市場)には個人商店が並ぶ=福嶋タケシさん提供

暑すぎる夏場は海には行かずにスークで過ごすこともあります。スークというのは伝統的なスタイルの市場で、個人商店がたくさん入っています。友達がここで鷹狩りの道具や鷹の売買を仲介する店を経営していて、訪ねるとお茶も出してくれるので、クーラーの利いた店内に座って、窓越しに人々の往来を眺めるのが好きです。(構成・浅倉拓也)

友人がスーク(市場)で営んでいる「鷹ショップ」はお気に入りの場所だ=福嶋タケシさん提供

ふくしま・たけし 1970年、大阪府生まれ。UAE大学留学を経て、2002年からカタール政府公務員。