この時期、校舎1階の仕込み室などで約1週間、杜氏から酒造りを学ぶ講座も開かれていた。スペインから参加した大学教授ホセマリア・デ・チュルティチャガ(51)は以前、北陸の酒蔵に酒造りを学びたいと手紙を出したが、返事をもらえなかった。「ルミコは受け入れてくれた。サドは心が広い」
尾畑は、島の真野地区に126年続く老舗蔵元「尾畑酒造」の5代目。専務として、地酒「真野鶴」(まのつる)を世界15カ国・地域に輸出するまでに押し上げた。
面積は約855㎢と東京23区の1.4倍、新潟市までフェリーで2時間半かかる佐渡島は、縮みつつある。1950年に約12万6000だった人口は年1000人ペースで減り、いまや半分以下の約5万6000。このままでは、じり貧だ。佐渡ならではの酒を造り、酒造りを学び、人が集い、交流する。それが島の未来につながる。2014年に学校蔵を始めたのは、そんな信念からだ。
講師の一人で、人口問題や地域振興に詳しい日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介(54)は、「家業をいかしながら無理なく活動するのは難しい。老舗の後継ぎでここまでできている人は少ない」と評価する。
■映画館のない島で育ち配給会社へ
尾畑は、4代目・俊一(82)の次女として生まれた。幼い頃は蔵が遊び場。米が蒸し上がると、杜氏から「ひねり餅」にしてもらってはほおばった。酒蔵を継いでもいい。そう思っていた。
しかし、成長するにつれ、島の暮らしに窮屈さを感じ始める。人気紀行番組「兼高かおる世界の旅」にはまり、公民館の上映会やテレビで映画を見ては、外の世界へ夢を膨らませた。中学生の時、5歳上の姉が結婚して蔵を継ぐことが決まった。慶応大学に進学すると、島になかった映画館に通い詰めた。後を継ぐ必要がなく、就職活動で導かれるように受けた配給会社・日本ヘラルド映画(当時)の宣伝部。「映画館のない島で育ち、利き酒が特技」とアピールし、数百倍の激戦を通った。
「氷の微笑」「レオン」など注目作の宣伝を任された。せっかく押さえたメディア取材を俳優にドタキャンされるなど苦労は絶えなかったが、失敗を恐れない社風が好きだった。
酒蔵も気にはなっていた。姉夫婦が経営方針の違いから家を出ていた。「帰ってこい」という父の誘いに、背を向けていた。
転機は28歳の時。俊一が病に倒れた。幸い大事にいたらなかったが、尾畑は考えた。「明日地球がなくなるとしたら何をしたいか」。仕込み蔵で真野鶴を飲む姿が浮かんだ。
佐渡に帰ろうと決心したあと、雑誌「東京ウォーカー」の編集者だった平島健(53)と交際を始めた。「一緒に酒造りをしよう」とプロポーズされ、95年に結婚。2人で佐渡に渡った。
■帰郷後、空回りが続いた5年間
先祖が守ってきた地酒「真野鶴」は、コメのうまみと透明感が持ち味だった。しかし、地酒ブームに勢いはなく、若者離れで日本酒の消費は落ち込むばかり。ここは思い切って酒質を変え、新商品を売り出すべきではないか。5代目に就任して意気込む尾畑は、そう提案しては、俊一と衝突した。
映画宣伝の経験から「自分はマーケティングにたけている」という自負もあった。しかし、頑張れば頑張るほど空回りする。業者に仕事の相談をしても、1週間返事がない。東京との仕事のスピードの違いにいらだった。そばで支えてくれる健には、方言でよそ者を意味する「旅んもん」という言葉がついて回った。
「5年以内なら帰って来い」。配給会社時代の上司がかけてくれた言葉が頭をよぎった。「東京に帰りたい」と弱音を吐くと、健に諭された。「今帰ったら、負け犬になるよ」
5年目のある日、俊一と大げんかして、考えた。「これまで何も変わらなかった。待てよ。まだ一つ変えられるものがある。私だ」
目を外に向けよう。新潟県最大の都市・新潟市で卸業者のトラックに同乗し、昼は一緒にラーメンを食べ、酒屋を回った。全国の銘柄が競う東京の地酒屋で飛び込み営業も経験した。
小さな変化がつきを呼ぶ。「うちの酒、国際線の飛行機で飲めたらいいよな」。欧州のワイナリーを視察した俊一のなにげない一言に、尾畑はぴんときた。フランスは酒蔵が点在する日本のように小さなワイナリーが多い。コネはなかったが、仏航空会社エールフランスに真野鶴を売り込んだ。1年ほどたち、「180㎖(1合)瓶はありますか?」と問い合わせが来た。機内酒のサイズだった。当時1合瓶に入れていなかったが、「あります!」と答えた。交渉が進み、2003年に採用にこぎつけた。県酒造組合加盟90社の中でも中規模の酒蔵の「快挙」に、業界は驚いた。
並行して、海外輸出に歩み出す。配給会社時代、出張先の米国で見た日本酒は大手酒造メーカーの製品ばかりだった。「いつか米国の人に真野鶴を届けたい」と感じていた。
当時、日本酒の輸出は商社に出し、米国の関連会社が現地の日本料理店などに卸すのが一般的。そうではなく、米国の業者に直接輸出し、米国の卸を通じて酒屋に置いたらどうか。
大手飲料メーカーの友人や社内から夢物語と言われたが、尾畑はめげなかった。日本貿易振興機構(ジェトロ)のセミナーに足を運び、サイトに英語で情報をアップした。すると、県内に留学経験があるロサンゼルスの男性からメールが届いた。1年かけ準備を進め、03年、真野鶴の輸出にこぎ着けた。
だが、数年で取引は終了。昔なら焦ったかもしれないが、韓国や台湾などとも取引を始めた経験から、相手が自分を見つけてくれた方がうまくいくと学んでいた。やがてオファーが来た。尾畑が出張で立ち寄ったロサンゼルスの酒店に、真野鶴の評判を聞いた業者だった。その後、海外販路は順調に伸び、15カ国・地域、輸出は売り上げ全体の7%を占めるまで成長した。
■変わって気づいた島の素晴らしさ
07年、「真野鶴 万穂」はインターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)の日本酒部門・大吟醸の部で、金メダルの一つに選ばれた。英国での授賞イベントで、尾畑は各国の受賞酒を試飲するうち「酒の個性とは生産地の魅力」だと気づいた。それは自分にとって、佐渡島にほかならない。「佐渡は世界に誇る素晴らしい島。自分が変わることで、ようやくそれに気がつけた」
尾畑酒造のモットーは「四宝和醸」。酒の三大要素と称される米、水、人に佐渡島を加えた造語だ。精米歩合や受賞歴などを売り込んでいたが、いまは「佐渡ならでは」を前面に押し出す。「佐渡だからこそできる酒造りをしていけば、マーケットは世界にある。もはや地方vs都会ではなく、世界の中でここだけの地域であることが大事。まだ成長の途中です」(文中敬称略)
■Profile
- 1892 現在の新潟県佐渡市真野地区で尾畑酒造創業
- 1950 佐渡島の人口が約12万6000でピーク
- 1965 4代目尾畑俊一の次女として生まれる
- 1984 慶応大学法学部入学
- 1988 日本ヘラルド映画(当時)入社。宣伝部に配属。以後「氷の微笑」「レオン」などの作品を担当
- 1995 結婚。退社し、5代目として家業を継ぐ
- 2003 エールフランスの機内酒に「真野鶴」採用。米国輸出開始
- 2004 島内の全10市町村が合併し、現在の佐渡市に
- 2007 IWCの日本酒部門・大吟醸の部で「真野鶴 万穂」が金メダルの一つに選ばれる
- 2014 学校蔵で初仕込み。第1回特別授業
- 2015 学校蔵で酒造りを学ぶ講座がスタート
- 2018 佐渡市の人口は約5万6000(7月末現在)
■Self-rating Sheet 自己評価シート
尾畑留美子さんは、どんな「力」に自信があるのか。8種類の「力」を5段階で評価してもらうと、酒蔵の5代目らしく、「酒」に関する項目では積極的に高めの評価をつけた。
「酒をおいしく飲める」は5。「最近は何を飲んでもらうかだけでなく、どう飲んでもらうかも考えるようになった。辛いなと思ったら温度を上げ、甘いと感じたら冷やす。器次第で味も変わる」。「酒の強さ」は4。「自信がないという答えにできない。強くはないですが、つぶれたりはしない」。「行動力」は、「結構自信がある」として4をつけた。一方、体力は2。スポーツは不得手で、「自信を持って言える」。
■Memo
東京で働いていたころと今…28歳のとき、東京の銀座を紹介する朝日新聞のエリア広告特集で取り上げられたことがある。勤務先の日本ヘラルド映画(当時)が銀座にあった。実家が造り酒屋で、「日本酒のおいしい店や庶民的な焼き鳥屋さんにもよく行きます」と答えていた。現在は年3、4回、海外へ出張に行く。日本酒造組合中央会で需要開発委員会の委員も務める。
夫の平島健…東京都西東京市出身。母方の実家が長野県佐久市で造り酒屋を営む。結婚して島で働き始めた頃、名所などを紹介する冊子「佐渡ウォーカー」を作って取引先に配ったが、「正直、来たばかりで、戦力外もいいとこだった」。今は尾畑酒造社長を務める。夫婦を知る出口治明は「学校蔵の成功は留美子さんの個性が引っ張っているようにみえるが、自由にできるのは、健さんがいるからこそ」と話す。