自民党衆議院議員の杉田水脈氏が月刊誌「新潮45」(8月号)で行政サービスについて「生産性のない」LGBTのカップルに「税金を投入するのがいいのかどうか」と寄稿し、波紋を呼びました。自民党前には5000人もの人が集まり、発言に反対してデモを行いました。国内にとどまらず、CNNなどの海外メディアも杉田氏の発言について批判的に報じています。
国内外で批判の声が挙がる中、筆者も同氏の発言にはショックを受けました。LGBTを取り巻く環境を筆者の出身国であるドイツと比べた時、日本とのあまりに大きい違いが浮き彫りになったからです。
そうはいっても、かつてドイツではカトリック教会の影響もあり、LGBTの人々が社会的に受け入れられていたわけではありませんでした。ゲイの結婚は認められていませんでしたし、同性愛そのものについても社会の中に賛否両論がありました。
同性の恋人と共に公の場に出ることも中々ハードルの高いものでした。かねてより「カップル社会」(プライベートはもちろん、仕事がらみのパーティーや公式なレセプションにも「カップル」として参加することが普通だとされている社会)であるドイツは、LGBTの人々にとっては「生きにくい」社会だったのです。「カップルとして堂々と同性の恋人と一緒に公の場にも出て行きたい」ためには「カミングアウト」が必要ですが、「社会の中で認められたい」という彼らの声が国に届いたのは「つい最近」のことです。
昨年より「同性婚」が可能になったドイツ
ドイツでは「ゲイの人を認めましょう」と人々の「モラル」に訴えかける期間も長くありましたが、昨年の2017年10月1日にようやく法律も追いつき、「同性婚」が認められました。それまでは事実婚として「登録されたパートナーシップ」(Eingetragene Lebenspartnerschaft)は認められてはいたものの、結婚は認められていませんでした。同性婚を認める法律ができたことをシュピーゲルを始め、多くのドイツメディアがポジティブなこととして報じました。
ドイツが公式に認めた「3つ目の性」(日本語「Xジェンダー」)
実は、昨年、ドイツでは同性婚以外にも、画期的といえる決定がされました。2017年11月にドイツの連邦憲法裁判所は「出生届において『男』と『女』以外のdas dritte Geschlecht(直訳「3つ目の性」和訳:Xジェンダー)の記載」を認めました。ドイツでは出生時に、実際には赤ん坊の性別が医学的に曖昧であっても、2013年までは出生届に「男」か「女」のどちらかを記載しなければなりませんでした。2013年からは、性別が曖昧な場合、性別の欄を「空欄」のままにすることが認められていましたが、今後は空欄ではなく「名称」を付けての記入が認められます。今はその「名称」をどうするか議論が進められており、今年2018年の年末までに決定する予定です。候補に挙がっているのは、inter(和訳:間性)やdivers(和訳:多様な)などです。
いわゆる間性(Intersexualität)に当てはまる人が2012年にはドイツに8万人いるとされていましたが、憲法裁判所によるとドイツにおけるその数はもっと多く、現在約16万人の間性の人間がいるとされています。裁判官はこの16万という数字について、国民の500人に一人、間性の人間がいるという医学上のデータに基づいて算出しています(出典:シュピーゲル)。
間性についても、ドイツでは過去に様々な問題がありました。今でこそ、本人が成長し、自分で判断できるまで手術は行われなくなりましたが、少し前までは子の誕生の際に男か女かはっきりしない場合、 「体を『男』に手術するよりも『女』に手術したほうが医師が手術がしやすいから」という理由で、本人の意思とは無関係に子供が小さいうちに手術が施され、書類上も性別が「女」とされてしまっていたことが多くありました(出典:シュテルン)。成長に伴い、勝手に周りに判断されてしまった自分の性別について悩む人も多かったのです。そんな中、間性のVanjaさん(ドイツのメディアでも仮名)が役所に対して「自分の証明書には「女」でもなく「男」でもなくinter(和訳:間性)やdivers(和訳:多様な)と書いてほしい」と申し立てをしていました。
Vanjaさんは80年代に産まれ、出生届には当時「女」と記載されましたが、Vanjaさんの染色体分析の結果、医学上男性でもなく女性でもないことがわかり、本人は「3つ目の性」の記載を求めていました。
前述通りドイツでは今年の末に記載の名称が決定する予定なので、現在は様々な役所や機関で、今後文書をどのように作り替えるべきか、という実務的な議論が進められています。当然税金がかかるわけですが、保守的な考え方の人間であっても、これらの問題に関する意識は確実に高まっていますので、杉田氏のように「税金がかかる」「行き過ぎた権利」などと批判する声はほぼありません。
「日本はまだそこまで人々の意識が追い付いていないから、法律を変えるのは難しい」という意見もありそうですが、いうまでもなく法律が人の考え方に及ぼす影響もまた大きいことを忘れてはなりません。「多様性を認めましょう」という道徳的なことも法律が伴ってこそだと思います。法律がない中で、「自分とは違う人を認めましょう」というのは現実問題としてなかなか難しいものです。
「ナチス時代への反省」という観点から
ドイツで現在LGBTが受け入れられている背景には「ナチス時代への反省」という点も大きいです。ナチス政権のもと、多くの同性愛者が迫害を受け虐殺されました。
杉田氏の「生産性のない人に税金を投入するのがいいのかどうか」という考え方はナチスの優生思想を彷彿させるものです。杉田氏が「税金の投入」といわばお金の話をしている点については、筆者はナチス時代のポスター(以下の画像)を思い浮かべてしまいました。
ポスターには「遺伝性疾患者は生涯で6万帝国マルクもお金がかかる。国民よ、それは貴方のお金でもある。月刊誌「新しい国民」をお読みください」と記載されており、「お金がかかる」ということを前面に出して、国民を煽っています。
ナチス時代には「これだけお金がかかるのだから、優生思想の基準を満たさない人の存在意義は無い」という考え方がまかり通っていたため、戦後70年以上経ったドイツでは今でも、「一歩、選択を間違えると、人間は『不寛容』に慣れてしまい、ナチス時代の過ちが繰り返されるかもしれない」と考えられています。当然ながら「生産性が無いので予算をカット」という思考は現在のドイツにおいては認められていない「考え方」です。
「色んな考え方があるから」という罠
日本では「色んな考え方があるから」「世の中には色んな人がいるから」「そういう意見があってもいい」という発言をよく耳にします。実際に自民党の二階俊博幹事長は杉田氏の発言について「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と述べています。杉田氏のような発言が批判を浴びながらも、一部では「意見の一つとして問題ない」と捉えられていることは、ヘイトや差別を容認することにつながりはしないでしょうか。少なくてもドイツを含む欧州では「議論の余地のない、完全にアウト」な発言であることは間違いありません。
日本の「色んな考え方がある」と見なす雰囲気や、欧米のようにすぐに白黒つけずに「曖昧な部分を残しておく」ことで平和を保てる場面もあるかとは思いますが、今回ばかりはその次元の話でないことは確かです。「差別は悪」だというコンセンサスがないまま「色んな人がいるから」「色んな考え方があるから」という雰囲気に流され言論の自由を履き違えてしまっては、社会が危険な方向へと向かってしまうのではないでしょうか。