入国するとすぐ、メキシコ人男性が笑顔で近寄ってきた。歯の白さが際立つ。みやげ物の客引きかと思ったら、意外なものを売り込み始めた。
「歯医者はどうだい?歯のクリーニングも漂白もやっているよ」
後ろの建物をよく見ると歯科の看板だらけ。「新しい歯が欲しいなら米国は1本800ドル、ここなら140ドルさ」
町を歩くと、通りはどこも歯科、歯科、歯科。そこにたまに加わるのが薬局と眼鏡店、伝統工芸品店だ。路上には薬の名前と値段がびっちり並ぶ看板が立ち、中庭にあるしゃれたカフェに入ると、下の写真のように屋根の先に「バイアグラ100ミリグラム」との宣伝が書かれていた。
いったいここはどんな町なのか。私はランチにメキシコ料理を食べに来ただけだったのだが、気になってこのままでは帰れない。手がかりを探しに観光案内所を訪ねた。
居合わせた女性職員に町の説明をお願いすると、「ちょっと待ってて」とスマホをいじり始めた。しばらくして現れたのは、町長だった。
「この町なら米国の2割ほどの料金で歯を治療できます。しかも最高水準です」
町長クリスチャン・カマチョ(34)によると、町民約4500人のうち、歯医者だけで約600人。8人に1人が歯医者という計算だ。約350軒の歯科が国境そばの4区画に密集するという。
このほか、薬局が約20軒、他の診療科が約10軒。町長自身もすぐ近くの薬局の経営者で、「日本から記者が来た」と聞いて店から駆けつけたのだった。
カマチョが「Molar city(奥歯の町)」と呼ぶこの町ができあがったのは、口コミの力だった。
最初の歯科ができたのは1980年代半ば。国境のすぐ向かいに開業したところ、米国より格安で高水準の治療が受けられるとあって評判になった。その歯科医が同僚に声をかけ、やがて薬局ができ、「歯も薬も安い」と来客がさらに増えた。歯科のアポ待ちの患者に売り込もうと、伝統工芸品店も集まった。
私が訪れた8月は閑散期で訪問者は1日600人ほどとのことだったが、冬のピークは連日1万5000人が押し寄せる。意外なことに、その半分は遠く離れたカナダから来た人たちという。国境の向こうの米アリゾナ州ユマはカナダ人高齢者に人気の避寒地で、滞在中に格安で歯を治せる町として知られるようになった。
訪問者の4割を占める米国人は今後、もっと増える、とカマチョは見込む。トランプ大統領が「医療保険制度改革(オバマケア)」の見直しを掲げるためだ。7月にいったん頓挫したものの、トランプは「見ていろ!」とツイートした。
制度が見直しになると、保険がなくなる米国人が急増しかねない。でも、米国の人たちは心配しないで、とカマチョ。「私たちがここで歯の治療をお手伝いしますから」
(敬称略)