ジョージア州アトランタ郊外の巨大なビル群は、感染症対応などの分野で「世界最強」と言われる機関にふさわしい威容を誇っていた。米疾病対策センター(CDC)本部だ。年間予算約8000億円、海外の支部も含めた総職員数は約1万4000人。6月上旬、そのなかで緊急事態に即応する緊急時オペレーションズセンター(EOC)の取材許可が出た。テロ対策で警備が厳重で、海外メディアが取材できる機会は少ない。
内部は、大型画面の前にパソコンがずらりと並び、取材時には約20人の職員が国内外の機関と連絡を取りあっていた。撮影が許可されなかった画面には、米国だけでなく、中国の鳥インフルエンザやアフガニスタンのポリオなど世界各地の感染症の状況も映し出されていた。内外の医師や検疫所などから助言を求める電話が1日100件近く入る。要請があれば職員を世界各地に派遣する。
アウトブレイクが起きると、部署を横断した態勢が組まれる。ジカウイルス感染症(ジカ熱)チームを率いるヘンリー・ウォークは「CDCは大きな組織だ。EOCがハブの役割を果たし、疫学や病理学など各部署から専門家を集める」と話す。裏手の一室には、衛星携帯電話やパソコン、医薬品、防護服などが用意済みで、出動の際はこれらを荷詰めして飛び出していく。
関係部門の全職員が呼び出される最高度の「レベル1」事態はこれまでに4回。2005年のハリケーン・カトリーナ、09年の新型インフルエンザ、14年のエボラ危機、そして16年から続くジカ熱だ。緊急時にいち早く現場に入るのが、エピデミック・インテリジェンス・サービス(EIS)という若い疫学専門家たち。患者や医師らから事情を聞き取り、感染の経路や原因の特定などを進める。その動き方から「病気の探偵」の別名がある。
バイオテロとの戦い
EISは1951年、朝鮮戦争で高まったバイオテロの脅威に備えて医師らを訓練したのが始まりで、いまもバイオテロへの対応を視野に置いている。
毎年約70人が2年間の任期で採用され、訓練を受けつつ活動する。このため、常時150人規模の態勢になっている。能力があれば米国人以外も受け入れる。出身者は約4000人。国際機関や各国政府・研究機関に人材を輩出し、グローバルな人脈と情報網を築いている。
医師の小林美和子(39)も14年から2年間在籍した。採用されてすぐの14年9月、エボラ危機さなかのリベリアに飛んだ。現地の看護師らに感染防護の方法を教えて病院の再開にこぎつけた。現在もCDCで働き、最近ではアウトブレイク対応でナイジェリアに派遣された。
米国は脅威が叫ばれ始めた90年代から新興・再興感染症対策を本格化させ、2001年、同時多発テロ後の炭疽菌事件を機にバイオテロ対策を一段と強化した。CDCは21世紀の使命の一つに「国境に到達する前に疾病と戦う」と掲げ、「米国の安全保障のために世界中の新たな病原体や疾病に立ち向かう」としている。感染症を安全保障上の脅威だと位置づけているのだ。
現場にいち早く入って病原体を入手すればバイオテロ対策などでも世界的に優位に立てる利点がある。他国の医師らから「米国は現場にはすぐ来て、検体を集めるのには熱心だが、治療はそれほどでもない」といった批判が出るのは、CDCのグローバルな活動が米国の国益そのものであることも示している。ただ、「米国ファースト」を掲げるトランプ政権はCDC予算を18年に17%削減する方針を発表した。今後の活動方針に影響が出ることを心配するCDC関係者もいる。
天然痘は根絶したけれど
米アトランタにある疾病対策センター(CDC)の博物館には「最後の天然痘患者」のソマリア人の写真とともに、現地で活動していたCDCの担当者が1979年10月に本部に宛てたはがきが展示されている。
「今や天然痘と戦った老戦士たちは、次に何をしようかとうろつき回るバファローのようだよ!」。翌年5月、WHOは天然痘根絶を宣言した。はがきの主は、根絶を成し遂げた誇らしさを冗談めかして伝えてきたのだった。天然痘根絶は、人類と感染症の戦いにおける金字塔だ。
天然痘の歴史は古く、日本には仏教が伝来した6世紀ごろに入ってきたとされる。大航海時代、西欧人がインカ帝国などを征服できたのは、天然痘の免疫がない地で感染が一気に広がったのが一因だという説がある。ワクチンができたのは18世紀末。英国の医師エドワード・ジェンナーが、乳搾りをする人びとに天然痘患者が少ないことに着目し、牛の感染症である牛痘のウイルス接種を始めた。ワクチン(vaccine)は牛を意味するラテン語「vacca」から名づけられた。
20世紀に入ってワクチンや薬の開発はさらに進み、感染症は人類の敵ではなくなった、と考えられた時期もあった。天然痘根絶はその象徴的な到達点であった。
だが前後して現れたのが、76年のエボラ出血熱や、81年のAIDS(後天性免疫不全症候群)などの新興感染症だ。感染症との戦いに、新たな戦端が開かれた。
感染症の歴史に詳しい元理化学研究所の加藤茂孝は「感染症は常に人類の歴史とともにあり、油断は禁物だ」と指摘する。
内戦が続くイエメンではコレラが猛威を振るい、国連児童基金によると、疑い例を含む感染者数は20万人、死者は1300人に達する。抗生物質などが効かない耐性菌も深刻だ。WHOは、多数の抗菌薬に耐性を持つ結核の感染が年間約48万件に上ると推計し、耐性のあるAIDSのウイルスやマラリアも見つかっている。
感染症の根絶に力を注いできた人類だが、近年は、人間の健康だけを守るのではなく、動物や環境を含めた生態系を健全に維持することが新興感染症の本質的な予防となるという「One Health」の考え方も出てきた。
ただ、ウイルスや細菌が変化を止めることはなく、人間側も同様だ。この攻防に終わりはないと言われている。
「貧者の病気」 高い創薬の壁
感染症が猛威を振るうたび、薬やワクチンが開発されれば──と私たちは思う。だが、そう簡単ではない。
「顧みられない熱帯病(NTDs)」。デング熱など創薬が進まない18の感染症を世界保健機関(WHO)はそう位置づける。こうした感染症は、途上国が舞台の、いわば「貧者の病気」。患者や地元政府に薬代を負担する余裕はなく、製薬産業にとっては薬を開発しても売り上げが見通しにくい。
英医学誌「ランセット」に2006年に発表された調査によると、1975年からの30年間にできた1556の新薬のうち、NTDsとマラリア、結核向けはわずか1.3%だった。
一方で新薬開発の費用は高騰を続けている。かつて「千に三つ」といわれた開発の成功確率は、今や「2万5000分の1」(製薬関係者)。薬事承認を得るまでの開発期間は9~16年、費用は数百億~3000億円規模とされる。特に人体に投与する臨床試験(治験)段階に入ると費用が跳ね上がる。治験前に開発が止まることが多く、業界ではこの境を「死の谷」と呼ぶ。創薬がどんどん「ハイリスク」になっていくなか、企業の視線はローリターンの感染症からおのずと遠ざかり、研究開発はがんや糖尿病といった先進国で需要の高い分野に集まる。
市場原理任せをやめて、政府系ファンドや非営利団体が感染症の薬の費用を担う仕組みづくりも試みられてきた。
感染症が初めて主要議題になった00年の九州・沖縄サミット後に「グローバルファンド」が発足。13年には、日本でも製薬企業とビル&メリンダ・ゲイツ財団、政府などの出資で世界初の官民ファンド「グローバルヘルス技術振興基金」(GHITファンド)ができた。最高経営責任者のBT・スリングスビー(41)は「死の谷を乗り越え、日本発の技術革新を途上国に届けたい」と語る。今年1月にも、日本を含む各国政府や財団などが資金を出し、感染症のワクチンの国際開発を進める機関を立ち上げた。
とはいえ、薬事承認に必要な治験の難しさも感染症にとっての壁だ。エボラ危機で注目された日本の抗インフル薬「アビガン」のケースは象徴的だ。
子会社がアビガンを開発した富士フイルムの医薬品事業部マネージャー、山田光一(58)は14年9月、WHOのエボラ対策会議の会議場でフランス代表団の人物からコーヒーに誘われ、アビガンの供給を求められた。アビガンは、抗インフル薬として日本の薬事承認は得たものの、エボラでは動物実験すら手がけていない段階だった。それでも、ウイルスの遺伝子複製を阻む独自の作用から「エボラへの切り札」になり得るのではとの期待が高まっていた。
2週間後、パリで山田がアビガンを手渡した翌朝、仏側は世界で初めて人への投与に踏み切った。それだけ切羽詰まっていた。現地での支援活動中に感染した仏人女性看護師はアビガンと他の未承認薬を併用して回復した。仏側が責任を持つ形で12月、ギニアで治験が始まり、一部の感染者群の死亡率がそれまでの3分の2に下がった。
だが、治験は本来、ニセの薬を使った場合と効果を比較するなど、厳密な手順を踏んで薬事承認をとるためのデータを積み重ねる。切迫したエボラの現場では不可能で、集めたデータは日本の当局に「ご苦労さんだが使えない、と言われた」と山田。「途上国の感染症と、先進国の薬事承認はなかなか相いれない」
結局、アビガンにエボラでの薬事承認の道は開けなかったが、現地側の要望は依然強い。日本政府はいま、未承認の薬であっても、国際社会の要請に応じて素早く供与できる新たな仕組みづくりを進めている。