■ゲケドゥ県保健所職員ムサ・トゥレ(47)
2014年3月にエボラ出血熱のアウトブレイクが宣言されたとき、地元の医師や保健当局者すらエボラのことを知りませんでした。村人はエボラの存在そのものを疑い、「でっち上げ」だと考えました。医療への不信も強く、私たちがエボラの説明をしようと村を訪ねると、村人に石を投げられたり、切り倒した木材で村に入れないよう妨害されたりしました。「村人に触るな」と言って刃物を手にした者もいました。
情報の伝わり方も事態を悪化させました。コウモリを食べると感染すると言われたのですが、数百年前からコウモリを食べ続けてきた村人は信じませんでした。「治療法もワクチンもない」と伝わったことが、「どうせ入院しても死ぬだけだ」と受け取られて、多くの人たちが病院に行くのを嫌がりました。エボラかどうか確認される前に多くの人が死亡し、入院してもエボラと確認されると病院から逃げ出してしまう。統計上はゲケドゥでの死者は204人ですが、実際の死者数は今でも分かりません。
エボラ出血熱という病が実在することを分かってもらうため、宗教指導者や呪術師ら地元の有力者を説得したり、地元の言葉でラジオを通じて呼びかけたりしました。入院患者に家族から電話があった時には、受話器を渡してどんな治療を受けているのか伝えてもらうようにしました。そうした取り組みを通じて少しずつ、エボラは自然界にある病気で、でっち上げなどではないことが理解されていった。7~9月になってから患者は減り始めました。
■地元弁護士ロバート・カマノ(35)
エボラのアウトブレイク宣言後、外国人を含む医療従事者が車で大挙してやって来たのを見た村人たちは、「病は白人が持ち込んだもの」という印象を持ちました。住民啓発の仕事にありつけなかった村人がねたんで「血や臓器を売買している」といったデマを流したり、雇われた者もフランス語の研修が理解できないまま、いい加減な話をして回ったりしました。地元の人びとの怒りが医療従事者に向かい、車を燃やしたり、検問を設けて車を止め、運転手に暴力をふるったりする事件が起きました。
鼻血や嘔吐、発汗など、エボラの症状の多くは一般的なものです。最初はそれほど死者もいなかったので、村人は医療を拒み、手洗いの励行や、遺体を洗って埋葬する習慣をやめるようにとの呼びかけを無視しました。地元医師は好待遇を求めて支援団体の治療センターに移ってしまい、入院患者は病院を逃げ出しました。
遺体を埋葬した人たちが相次いで死んだり、呪術師を頼った一家が全滅したりするなど、あまりに多くの死者が出たことでやっと、エボラが本当だと理解され始めました。治療センターで回復して退院した姿を見て、きちんと治療を受ければ村に戻れることが理解され、症状が出たらすぐにセンターに来るようになりました。食料が不足する雨期に、支援団体が食事や手洗い用の水を提供したことも歓迎されました。
住民はやがて、自ら検問を設けて通行者の検温をするようになり、政府も動き出して、少しずつ対策が進み始めました。ただそれは同時に、周辺の町村から続々と患者が送られてきて、連日多くの遺体を目にするつらい時期でもありました。
■地元NGO「平和と和解のための協会基金」代表ラザレ・カマノ(48)
ゲケドゥは2000年代前半まで、それぞれ内戦をしていた隣国リベリアとシエラレオネと国境を接しています。地元の人たちは内戦の余波で受けたトラウマも癒えないうちに、再びエボラ出血熱という新たな戦いに巻き込まれたわけです。
私は国境なき医師団(MSF)がゲケドゥに開いたエボラ治療センターで14年3月から、毛布や歯ブラシ、せっけんなど102品目の調達を担当しました。病気は「医師や白人が持ち込んだものだ」という医療不信が強く、センターには最初のうちは1日に2人くらいしか患者は来ませんでした。「医療従事者が臓器を売買している」といった虚偽情報も流されました。
周知活動を通じてエボラが本当だと理解され始めた途端、患者が急増しました。25人程度を想定した施設は100人の患者であふれて、パニックになりました。仕事がきつくなりすぎて、多くのスタッフが逃げ出しました。
町中で常に救急車のサイレンが響く状態でした。連日のサイレンに地元住民も精神的に疲れ果て、MSFを追い出そうという動きも出てきて、警察当局の警備がつくようになりました。
遺族から遺体を入れた袋を開けろと詰め寄られた日のことは忘れられません。臓器や鼻や耳などが切除されていないか確認させてくれ、というのです。袋を開いて、遺体が普通の状態にあることを遺族が実際に目にしたことで、流布していたのが虚偽情報だとやっと分かってもらえました。協力してもらえるようなったのはそれからです。