「1、2年はよくても……」元審議委員は助言したが
今年初め、元日本銀行審議委員の中原伸之(83)は、日本銀行総裁の黒田東彦(73)と二人きりになった場で、こう語りかけた。
「この1、2年はよいとしても、その先は見通せないよ」
黒田の5年の任期は、4月で切れる。もし再任を要請されても、慎重に考えるべきだという趣旨だった。黒田は、中原が意外に思うほど真剣な表情で聞いていた。
東燃(現JXTGエネルギー)社長などを務めた中原は、安倍晋三首相を囲む財界人の会合を10年以上主催、安倍に助言をする仲だ。
だれが黒田の後任になるのか、黒田の再任なのか、金融市場はかたずをのんで見守っている。続投すれば、1964年まで日銀総裁を務めた故・山際正道以来、半世紀ぶりのことだ。
5年にわたる景気拡大、上がり続ける株価、24年ぶりの低水準にある失業率……。
2012年末に発足した安倍内閣の経済政策「アベノミクス」の3本の柱の一つである金融政策について、安倍は満足しているようにみえる。官邸中枢の一人は「代える理由がない」と、再任に前向きだ。
5年余り前、2度目の首相に就任した安倍にとって、日銀総裁人事は大きな課題だった。安倍政権は、物価が下がり続ける「デフレ」からの脱却を公約にしていた。そのために国債の大量購入など大規模な金融緩和を進めようとした。
しかし、当時の日銀総裁・白川方明は、それによって日銀が国債の事実上の引受機関となって政府と日銀の一体化が進みかねず、将来の日本経済が不安定化することを懸念、消極的な立場だった。
安倍は、日銀の独立性を定めた日銀法の改正に言及するなどして、日銀に圧力をかけた。13年1月には政府と日銀が共同声明を発表、2%の物価目標について点検事項も挙げた上で、「できるだけ早期に実現することを目指す」との文言が盛り込まれた。
安倍政権はその翌月、より大胆な緩和措置をとるべきだという立場で日銀を批判していた黒田を総裁に選んだ。黒田の総裁就任後、日銀は安倍政権の求めに応え、異次元緩和を進めていった。
日銀の金融政策は総裁一人で決められるものではない。政策変更の際には、金融政策決定会合で、政策委員会(ボード)メンバーである総裁、副総裁2人、審議委員6人の計9人が投票し、多数決によって決まる。総裁も審議委員も同じ1票である。
安倍官邸は、任期が切れるたびに、審議委員を次々と「リフレ派」や積極的な緩和策の賛成派に塗り替えていった。リフレ派の定義はあいまいだが、大規模な緩和などの積極策で、物価上昇率(インフレ率)を目標まで上げることを重視する人たちを指す。
ボードには、正副総裁よりさらに積極緩和を唱える片岡剛士が入る一方で、異次元緩和に反対する「反リフレ派」的な人物は、一人もいなくなった。
「日本銀行は奴雁たれ」が意味するもの
総裁が黒田に代わった後、最後まで、日銀内部から大規模緩和に警鐘を鳴らした審議委員がいる。野村総合研究所のエコノミスト、木内登英だ。
木内は昨年7月の退任直前に、全日銀職員に向けたメッセージに、かつて名総裁とうたわれた前川春雄(1911~89)の言葉を引用しつつこう記した。
「前川総裁は、日本銀行は奴雁(どがん)たれ、とおっしゃっています」
奴雁とは、元々は福沢諭吉の論集の一節にあった言葉。仲間が羽を休め、田畑で餌をついばんでいるときに、1羽だけあたりを見回している雁を指す。危険が迫れば、いち早く声をあげて知らせる役割を果たす。
木内は、民主党政権時代に審議委員に任命された。もともとは積極緩和を主張し、当時の総裁だった白川よりも、「リフレ派」に近いともみられていた。
だが、白川の退任後、黒田の主導で進む大規模な長期国債の買い増しには、途中から反対の立場となった。16年1月の金融政策決定会合でもマイナス金利の導入に反対票を投じた。
政府の国債を日銀が引き受ける状態に限りなく近づくことで、円の信認が揺らぎかねないこと、銀行の経営にも悪影響が出て金融市場が不安定になることなどを懸念してのことだ。日銀は10年後、20年後のことを考えて金融政策を進めるべきだという思いで書いたのが「奴雁」メッセージだった。
木内は、今の金融政策決定会合について、意見が同質すぎるのではないか、との疑問を持っている。「多様な意見を持つ人が入り、建設的な議論がなされるのが望ましい」と語る。
これに対し、日本銀行幹部は「ボードメンバーはリフレ派だけではない。意見の多様性は十分確保されている」と反論する。
中原伸之は、98~02年の日銀審議委員の時代に、量的緩和などを金融政策決定会合で提案したことで知られる。のちに日銀は量的緩和を導入することになるが、当初は、中原の提案は否決され続けた。
その中原は現在のボードの議論について「残念ながら沈滞気味と言わざるを得ない」と指摘、一層の緩和を主張する側も、緩和の出口を探る側も、具体的な提案をするべきだとみている。
終わりなき論争、財政めぐり変わる構図
この5年、日本銀行の中はすっかり様変わりした。総裁の黒田東彦が主導する異次元緩和への違和感を唱える声は、ほとんど出てこない。
日本銀行の元幹部は、現役職員たちと会うと、こう感じる。「目先の景気がいいので心地よい。数年前まで政府や与党から叩かれ続けてきたからなのか、褒められることがうれしいようだ」
黒田以前の日銀の路線に共感していた中堅職員は、声をひそめて語る。「今の政策がうまくいくかどうかわからないが、失敗したときの副作用の被害は莫大だ。国民を壮大な社会実験に巻き込んでしまった」
一方、大規模な金融緩和を支持する外部の識者や日銀内の現在の主流派は、黒田以前の日銀の政策が、あまりに消極的で、日本を長期のデフレや不況に追い込んだ「戦犯」だとみる。
そもそも「リフレ」とは あいまい定義を整理する
「リフレ派」対「反リフレ派」。過去20年以上、金融政策を巡る議論は、この二つの派の対立でとらえられてきた。
そもそも、リフレ派とは──。その定義はあいまいで使用法もさまざまだが、ざっくり整理を試みよう。
リフレとは、リフレーション(通貨再膨張)の略語だ。リフレ派は、物価が下落する状態であるデフレーション(デフレ)が経済全体を収縮させる元凶だとして強く問題視する。日銀が大量の国債を購入するなどして市場に供給する通貨の量を大幅に増やしたり、物価上昇(インフレーション)の目標を明確に設定するなどして人々の「期待」に働きかけ、デフレからインフレに「転換」させることが重要だと主張するグループが、リフレ派と呼ばれてきた。
2013年、黒田が日銀総裁に就任した直後、日銀が長期国債を年間50兆円買い増す「異次元緩和」に踏み切ったとき、リフレ派は喝采した。その後、景気拡大は5年続き、失業率も歴史的に低い水準まで低下していることについて、リフレ派は、黒田緩和の大きな成果だとみている。
これに対し、反リフレ派の多くは、現在の日本経済の景気回復は、世界経済の回復が主因であり、失業率の低下も急速な労働人口減少によるところが大きいと考えている。また、日本経済の成長率低下は人口減少などによる潜在成長率低下によるものであり、物価下落が原因ではないという立場だ。
経済を成長させるには、規制改革などの構造改革で生産性を上げるという根治が重要であって、インフレ目標に無理に近づけようと、日銀が長期国債などを大量購入することは、財政規律を緩ませるといった弊害のほうが大きいとみる。
今の日本の景気が良くても、この路線を続ければ、中長期的には、国債価格や円の急落、ハイパーインフレ、金融システムの混乱などがやってくることを懸念する。
黒田以前の日銀の主流派は、長期国債の大量買い入れに慎重で、反リフレ派が多いとみられていた。
論争がさらに複雑になってきたのは、黒田やリフレ派が期待したように物価は上がらなかったからだ。大規模緩和にもかかわらず、現在のインフレ率は1%に達しておらず、2%という目標達成時期は6度も延期された。
リフレ派の中には、その理由が財政にあるとの見方が強まってきた。14年の消費税増税(5%→8%)が間違いであり、今後についても積極財政を行うべきという意見が強い。リフレ派の代表的な論客である早稲田大学教授の若田部昌澄は「2%の目標達成のためには政府と日銀の一層の協力が必要で、政府にも財政政策で配慮が欲しい」と話す。また、丸三証券経済調査部長の安達誠司は、来年に予定されている消費税増税(8%→10%)を見送るべきだと主張する。
これに対して、黒田は、最近は財政政策について口を閉ざしているが、前回の消費税増税には前向きだった経緯がある。財務省の出身でもあり、内心では財政再建を支持しているとみられている。
リフレ派の中にそもそもあった財政をめぐる見解の違いが、顕在化してきたとみることができる。現在の日銀幹部は「黒田総裁はリフレ派ではない」とし、積極財政派との距離を強調するが、これはリフレ派の定義をどうとらえるかの問題である。
では、政府の借金が、国内総生産(GDP)の2倍以上に達している日本の財政状況は、深刻なのかどうか。
リフレ派の一部は、政府には借金だけでなく資産もあるので、それを相殺して考えると問題がない範囲とみる。これに対し、反リフレ派は「国は、一つの家庭のように瞬時に資産と負債を相殺できない以上、借金の総額で考えるべきだ」(元日銀幹部)と話す。財政の健全性を示す基礎的財政収支(プライマリーバランス)の赤字を解消する見通しも遠のき、財政問題は深刻だとみる。
リフレ派の多くは、まず安定的な物価上昇が達成できるまでは、金融政策の手綱は緩めず、FRBが実施しているような金利の引き上げなどの「出口」を探るべきではない、という立場である。2%を達成すれば、財政再建もしやすくなり、経済は安定軌道に乗るとみる。
一方、反リフレ派の論客で、元日銀金融研究所長の翁邦雄は「足元の景気が良いうちに、政策対応の余地を作っておくべきだ」と話す。今後不況になれば、日銀は打つ手がほとんどなくなる。政府がさらに歳出拡大に踏み切れば、市場は「財政再建ができない」と判断して、「円」の信認が揺らぎ、一気に円安に進むリスクがあるとみる。
リフレ派と反リフレ派の論争は、決着する気配がない。
現日銀総裁の任期は4月で切れる。財政政策のあり方が2%のインフレ率の達成とからむ中、どんな金融政策を進めるのか。黒田が続投するにせよしないにせよ、次の総裁の任務は、この5年以上に難しいものになりそうだ。