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かっこよさを追求し、やがて出会う民族の誇り。深く、広く、新たな表現を探して

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
横浜市内のイルミネーションを背に。以前は都会に憧れたが、今は故郷の北海道の大自然が恋しいという。 photo: Semba Satoru

酒井美直 パフォーマー 「Spectacular(壮大)!」「very unique and creative(とてもユニークで独創的だ)」 YoutTubeに投稿された、2人組音楽ユニット「イメルア」のミュージックビデオには海外の視聴者が書き込んだコメントが並ぶ。「イメルア」はアイヌ語で「稲妻が光る」の意味。プロデュースは「ファイナルファンタジー」シリーズなどゲーム音楽の作曲家として知られる浜渦正志(45)で、ボーカルを担うのが、アイヌ民族の父親を持つ酒井美直(33)だ。

ポップ、テクノ、ロック、民族音楽。イメルアの音楽は、そのどれにも分類しにくい。日本語だけでなく、英語やアイヌ語の歌詞の曲もある。

視聴回数は6万6000回を数え、ユニット名にもなっているデビュー曲「イメルア」は、弦楽器やピアノの旋律にアイヌ伝統の弦楽器トンコリがアクセントを加える。アイヌの伝承曲「バッタキ(バッタの意)」のビデオにはCGを多用。独特の音階と軽快なリズムに乗せて、折り紙のバッタが舞う映像が印象的だ。

アイヌ文化の要素をまったく含まない作品も多い。「ジャイアント」は国家権力が肥大化することへの警笛を、モダンダンスで表現する。全員がそろって体を動かすラジオ体操に対抗する意味を込めた都会的な響きの「イメルア体操第四」は、ファンと踊るイベントを全国各地でゲリラ的に開いている。

5年前にポーランドとフランスで行ったデビューライブには約300人が訪れ、その後も世界各地でライブを開いてきた。

国内外でオーケストラなどとコンサートを開いてきた浜渦は「美直は、甘く、力強く、うっすらハスキーにもなる『七色の声』を持つ。どんな音にも溶け合うのが魅力。何より、ライブでステージを支配する力がある」と言う。

活動家ではなく表現者へ

横浜市内のイルミネーションを背に。以前は都会に憧れたが、今は故郷の北海道の大自然が恋しいという。 photo: Semba Satoru

北海道帯広市で生まれ育った。北海道は今も、アイヌ民族の流れをくむ人とその家族が数万人住むという。帯広は彼らが多く暮らす地の一つだ。

酒井の父親はアイヌで、酒井が5歳の時、出稼ぎ先の東京で亡くなった。差別反対運動に身を投じたと聞いたが、父の記憶は、その温かいぬくもりをうっすらと覚えている程度だ。

母親と2歳上の兄と公営住宅に暮らした。冬は暖房費を節約するため、日当たりに合わせ、時間帯によって部屋の中を移動することもあった。母は朝から晩まで働きづめだったが、生活苦を口にすることはなかった。水泳や英会話など、酒井がせがむ習い事はすべてさせてくれた。

4歳から高校卒業まで酒井にモダンダンスを指導した帯広市の松本道子(83)は「愛くるしくて明るくて、お利口さん。生徒たちの中でピカイチに輝いていた」と振り返る。ただ、酒井が家の前に「アイヌ」と書かれたことをボソッと明かした時、たった一度だけ表情を曇らせたことを覚えている。

アイヌの人々はかつて「土人」と表され、日本政府に独自の文化や言語を否定された歴史がある。

小学校の演劇会では主役を務め、中学校でもいつもクラスの輪の中心にいた酒井だが、アイヌであることを「恥ずかしい」と思い、友人にも隠していた。

高校1年の時に転機が訪れる。カナダで先住民族の若者たちと交流するツアーに参加した時のこと。民族の名を腕に入れ墨し、堂々と伝統舞踊を踊っている同世代の彼らがまぶしく見えた。「アイヌであることは、誇れることなのかもしれない」と初めて思えた瞬間だった。

アイヌレブルズ時代の酒井さん

東京の大学に進み、国連でアイヌの若者として先住民族の権利についてスピーチもした。卒業後、関東に住む若いアイヌら十数人に声をかけ、パフォーマンス集団「アイヌレブルズ」を結成。レブルズとは英語で「反逆者」の意味だ。「伝統文化」というイメージにあらがい、アイヌをかっこよく、楽しく表現したいという思いを込めた。 

伝統舞踊や伝承曲を現代風にアレンジして、ライブハウスや音楽フェスティバルで披露した。目鼻立ちのはっきりした美男美女が民族衣装をまとい、激しく踊る姿は話題を呼び、国内外のメディアに取り上げられるようになった。

代表の酒井には、全国の人権団体や行政から講演の依頼が相次いだ。求められるままに差別の経験を話し、舞踊や楽器演奏を披露した。だが、次第にそんな日々に焦りを感じるようになった。

「『アイヌ』や『差別』という部分ばかりが注目されて、このままだと自分は活動家になってしまうと思った。一人の表現者として認められるようになりたかった」

2010年、酒井はこれまでの自分と決別するかのように、講演活動を断り、アイヌレブルズを解散した。

次への一歩を踏み出すため酒井が声をかけたのが、知人の浜渦だった。

浜渦は学生時代から少数民族に興味があり、アイヌ民族の資料や小説を読みあさっていた。酒井と知り合ったのもアイヌの個展だった。

「歌、踊り、詩作、何でもこなし、アイヌ民族にルーツを持つ酒井とならば、他にはない音楽表現ができるかもしれないと思った」と浜渦は振り返る。翌年、2人はイメルアを結成した。

アイヌもっと知りたい

都内でのレコーディング風景。来春に新アルバムの発売を予定している。 photo: Semba Satoru

2人と共演経験があるドイツ人ピアニストで作曲家のベンヤミン・ヌス(27)は、イメルアについて「新しい表現を探している音楽家に斬新なアイデアを与えてくれる」と言う。医学博士で音楽評論家の祖父尼淳(46)も彼らを高く評価する。「どこをとってもきらめく感性に満ちている。ダンスや映像と音楽を一体化させる創作表現は、世界の先鋭的なアーティストからの評価も高い。こうした表現者が活躍できる場が日本ではまだ少ない」

酒井は最近、時間があれば東京・八重洲のアイヌ文化交流センターで昔の資料を調べ、故郷の帯広に戻ると地元に伝わる叙事詩を集めるようになった。イメルアの活動だけでなく、演技やダンスにも表現の場を広げたいと考え始めた。

自分にしかできない表現とは何か。そう思った時、一時は距離を置いたアイヌについて、もっと知りたくなったという。「伝統や自然信仰のイメージが強いけれど、叙事詩には若者の恋愛話や盗っ人の話も出てくる。アイヌの中にある、人間の普遍的な価値観に光を当てられないかと思って」

アイヌの母親をもち、自ら劇団を主宰する俳優の宇梶剛士(54)は「芸術表現は、人々の計り知れない努力と思いで育まれるもので、答えも、終わりもない。美直ちゃんも表現を愛する者として、自分の思いや叫びが自然と立ち上がってきたのでしょう」と言う。

自らのルーツを抱きしめながら、どこまでも深く、広く、酒井は表現の可能性を探っていく。

(文中敬称略)

項目に「体力」を見つけた瞬間、「なさすぎて困ってる!」と叫んだ。無理をすると、すぐ寝込んでしまうという。悩んだのは「決断力」。普段は優柔不断だが、自分の気持ちがはっきり分かった時は、大きなことも決断、実行できる。一方、自信があるのは「分析力・洞察力」。人間行動を分析、洞察するのが好きで、来世は探偵や刑事になってみたいそうだ。「独創性・ひらめき」も5。イメルアの相方、浜渦正志さんは「ライブやアルバム制作中、何を言い出すか分からない恐怖がある」とぼやく。

MEMO

2005年、都内の公園で先祖供養の儀式に参加したとき

家族…アイヌ民族でない母親と、兄。母によると「人見知りせず、人と会うのが好きな性格」は父親ゆずり。酒井さんは周りから父親のことを「酒癖は良くないが、とにかく優しく、温かい人」と聞いて育った。

名前…「ミナ」はアイヌ語で「笑う」の意味。父、衛さんの追悼集『イフンケ(子守歌) あるアイヌの死』によると、衛さんはアイヌ民族初の国会議員を務めた故・萱野茂さんに「アイヌ語で名前を付けたい」と相談したという。

アイヌ以外の自分…「忘れ物がとにかく多い」「気が散りやすい」ため、発達障害の一つADHD(注意欠陥・多動性障害)ではないかと悩み、その思いをライブ中に即興で歌った曲が「TeNiOE」。セカンドアルバムに収録するため、きちんと確認しようと病院にいくとADHDと診断された。「これも私の個性の一つ」と肯定的にとらえている。

文と写真

文・山田理恵
1977年生まれ。北海道報道センターなどを経て、文化くらし報道部。2008年に夕刊1面「ニッポン人脈記」で「ここにアイヌ」を連載。

写真・仙波理
1965年生まれ。朝日新聞東京本社カメラマン。アフガン、イラク戦争などを取材