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ウズベキスタンで日本語を教える若林一弘さん 辞書も編纂 海外生活を42年続ける理由

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ウズベキスタンの日本語講師若林一弘(右)さんと日本語弁論大会に参加した教え子=本人提供
ウズベキスタンの日本語講師若林一弘(右)さんと日本語弁論大会に参加した教え子=本人提供

中央アジア・ウズベキスタンの首都タシケントから350キロほど離れた都市、フェルガナ。若林一弘さん(66)は、人口20万人程度の街にある中央アジア医科大学で9月から日本語を教えている。2023年6月にウズベキスタンに渡った若林さんが同国で教えるのは約20年ぶり2回目。当時の教え子が再び、若林さんを招いてくれた。若林さんが日本語を教えた国は、ルーマニア、ロシア、アルメニア、トルコ、インド、ネパール、マレーシア、中国も含め、計9カ国。海外で日本語を教え始めてから、もう42年にもなる。(牧野愛博)

若林さんは大学が提供してくれたアパートに住む。暖房設備が故障しているため、冬は一日の大半をキッチンがある部屋で暮らす。調理用のガスコンロをつけっ放しにして暖を取るためだ。フェルガナに住む日本人は若林さんの他は、1人いるかいないかだという。日本の食材を売るスーパーはない。「すし屋」はあるが、「クリームを載せた巻きずし」が出てくる。お昼は、現地の人が最も好むプロフ(ピラフ)を食べ、牛や羊、鶏などの肉を焼いた「シャシリク」も食べる。

若林さんは、2003年9月から2004年6月までの間もフェルガナで日本語を教えていた。そこで共著で『日本語・ウズベク語学習辞典』を出版した。収録した言葉は700~800語くらい。若林さんはネパールやアルメニアでも辞典をつくろうとしたが、うまくいかなかった。

実は、若林さんはウズベク語をほとんど話せない。辞典作成には、教え子たちの協力が不可欠だった。「ウズベキスタンにとって日本の手は白いのです。過去に侵略したことはなく、逆にシベリア抑留兵士がウズベキスタンで発電所やダム、劇場などの建設に従事しました。それが親日的な感情を生み、辞典をつくる力になったと思います」(若林さん)。

首都タシケントのナヴォイ劇場。1966年のタシケント大地震でも倒壊せず、ウズベキスタン政府が建設に従事した抑留日本兵の功績をたたえた記念プレートが壁面に埋め込まれている
首都タシケントのナヴォイ劇場。1966年のタシケント大地震でも倒壊せず、ウズベキスタン政府が建設に従事した抑留日本兵の功績をたたえた記念プレートが壁面に埋め込まれている=gettyimages

ただ、約20年前の前回のフェルガナでの生活は最後まで納得のいくものではなかった。当時、フェルガナ盆地のアンディジャンを中心に、イスラム原理主義運動が盛んになり、政情不安な時期が続いた。若林さんによれば、まず、公的機関から派遣されている人々が姿を消し、間もなく、若林さんらを含む日本人も周辺地域から退避を余儀なくされた。若林さんらがフェルガナを去って約1年後の2005年5月にはアンディジャンで大規模な武力衝突事件も起きた。

フェルガナでの日本語教育は長く途絶えていた。若林さんの当時の教え子たちの努力で昨年、日本語教育が復活し、若林さんも再び招かれた。若林さんが20年前に教えた学生のうち、今フェルガナで日本語の教師になった人が4人もいる。若林さんは11月、新旧の教え子たちの助力を得て、辞典の改訂版を出版した。収録した言葉は約2000字まで増えたほか、文法などにも詳細な説明を加えた。日本語とウズベク語は同じ、ウラル・アルタイ語系に属する。一生懸命勉強する教え子たちの日本語は、日々メキメキと上達するのだという。

若林一弘さんが編算に加わった日本語ウズベク語学習辞典=本人提供
若林一弘さんが編算に加わった日本語ウズベク語学習辞典=本人提供 

42年間も海外で日本語を教える生活を続けて来たのは、留学していたハンガリーで1989年10月に起きた「共和国宣言」(注:東西冷戦末期、東欧諸国で急激に民主化の動きが進む「東欧革命」が起きた)を目の当たりにしたからだという。社会が大きく変わっていく姿を、自らそばで体験したいという思いが、長い海外生活の原動力になった。

ルーマニアの地方都市では、馬車に乗って教会に出向き、赤ん坊の洗礼式に立ち会った。その時、「この子が大きくなった時、ルーマニア社会はどうなっているだろう」と考えた。あれから30年以上が経った。今でもルーマニア社会と赤ん坊がその後、どうなったのか、時々思い返すことがあるという。

日本語講師若林一弘さんとウズベキスタンでの教え子たち=本人提供
日本語講師若林一弘さんとウズベキスタンでの教え子たち=本人提供

2004年につくった辞典には「ワープロ」「テープレコーダー」という言葉が収録されている。「時代の流れを感じさせる言葉だから」という理由で増補版にも残した。若林さんが日本語教師の生活をスタートした時期は、インターネットもメールもなかった。ロシアで日本語教師をしていた2000年、シドニー五輪での日本選手の活躍ぶりが気になったが、ロシアのテレビは、自国選手が活躍する場面しか流さない。出張中の空港で日本人を見つけ、「高橋尚子選手はどうなりましたか」と聞いたら、今浦島に出会ったような奇妙な顔をされたという。

ウズベキスタン社会についても「20年前よりも自由になりましたが、変わらない空気も残っています」と語る。経済と社会は発展し、学生たちもスマホを楽しむ。一方で午前8時半の授業開始の時に国歌が流れる。学生はみな直立不動だ。若林さんは「権威主義は続いているのです」と話す。

「家族がいないため、教え子が子供のような存在です」という。授業よりも、日本語コンテストや歌や踊りの時間が楽しみなのだという。決して楽な生活ではない。それでも若林さんは「健康でいられる限り、この仕事を続けたいのです」と話した。