「B級映画」の精神を持つパク・チャヌク監督
朝鮮半島を南北に分かつ38度線上での南北兵士の交流を描き、記録的ヒットとなった『JSA』(2000)、日本の原作漫画の映画化である『オールド・ボーイ』(2003)を含む「復讐三部作」などを通して、国際的にも評価の高い韓国映画界の「巨匠」パク・チャヌクは、近年ではハリウッドやヨーロッパにも活躍の場を広げ、『パラサイト 半地下の家族』(2019)を手がけたポン・ジュノ監督とともに韓国映画界を牽引する存在となっている。
ポン・ジュノがエンターテインメントの中に大いなる社会性を潜ませる作風で、どちらかというとアメリカで熱狂を生んだのに対し、パク・チャヌクはリアリズムとはかけ離れた画面作りの中に、タブーや罪意識に基づく贖罪と救済の過程を、過激に、過剰に、そして転覆的に描き出し、ヨーロッパでより好まれる作家である。
彼自身、フランスで起こった映画運動「ヌーヴェル・ヴァーグ」のゴダールやトリュフォーといった映画作家たちのように、シネフィル(映画マニア)から映画評論家となり、その自然の帰結として映画を作るようになったという出自の持ち主でもある。
パク・チャヌク作品の原点と言えるものに、「B級映画」と「愛」という2つの要素がある。
評論家時代の著書に「シネフィル必見のB級映画リスト」を掲載し、自身が浴びるように見てきた「B級映画」への偏愛をたびたび明かしてきたパク・チャヌクにとって、「ジャンル」の型を生かしつつ、そこに様々な実験を盛り込むことのできるB級映画という枠組みは、自身の映画作りに欠かせないものであった。
と同時に、「僕の映画はすべて愛の物語だ」と自ら語る通り、「愛をいかに語るか」をテーマとしてきた彼にとって、近親相姦や同性愛といったタブーへの挑戦は、伝統的な支配イデオロギーへの対抗という機能を持つB級映画的精神を発揮する手段でもあった。
その意味で、前作『お嬢さん』(2016)とは対照的に、6年ぶりの新作となった『別れる決心』に、それまでのパク・チャヌク映画を特徴づけていた過激な暴力性やエロティシズムは見当たらない。しかし一見、伝統的な男女の異性愛を描き、対抗的な転覆性が感じられないからといって、この作品がパク・チャヌク「らしくない」かというと、決してそうではない。
「刑事もの」の形式を用いて「メロドラマ」を語る本作には、「ジャンルをもってジャンルを語る」という、パク・チャヌクの原点が進化した作品像を見出すことができる。今回は、そんな原点と進化がどのように描かれているかに注目してみたい。
シンプルな物語を複雑な映像で語る本作は、決して「わかりやすい」映画ではないものの、映画という表現媒体の魅力を存分に味わわせてくれる素晴らしい作品である。鑑賞の際の一助になれば幸いだ。
翻訳ソフトを介した会話で起きる時間的なずれ
中国人妻を演じるタン・ウェイは、アン・リー監督の『ラスト・コーション』(2007)で鮮烈な印象を残し、国際的に活躍する映画俳優である。
実生活では韓国人の映画監督と結婚しているが、韓国語はあまり話さないらしい。そんな彼女自身の境遇も生かされ、中国から密航してきたという設定のソレは、自分を救ってくれた入国管理局の役人と結婚し、完璧ではない韓国語を話す。そのため、ヘジュンとソレが交わすコミュニケーションは通常より遥かに多様な手段をとり、またその韓国語そのものも多彩な色どりを見せる。
基本的に二人は韓国語で会話をするが、場合によっては翻訳ソフトを使い、韓国語に変換された自動音声を通じて意味が伝えられる。ソフトなので言葉はもしかしたら正しく翻訳されないかもしれない。メールのやり取りでは、ハングルの文字が二人の間で交わされる。
入力速度の速いソレからの矢継ぎ早のメッセージに、ヘジュンの返信は追いつくことができない。さらに、スマートウォッチに録音された音声ファイルは、異なるタイミングで再生され、あるいは捜査のために翻訳、書き起こされて文字として読まれることになる。
時代劇ドラマで覚えたソレの韓国語は、しばしば不自然なニュアンスを放ち、例えば「ついに=마침내(文語的表現)」「単一の=단일한(正確には唯一の)」といった具合に、言語は前景化され、観客も言語に神経を集中せざるを得なくなる(これは多分に韓国人観客の特権的な愉しみではあるが)。
プサン方面を舞台にした本作では、多くのキャラクターが味わいのあるプサン方言を操るなか、ソウル育ちのヘジュンと外国人のソレは、標準的なソウル方言を発している。
ここで重要なのは、コミュニケーションツールの違いによって、意味の伝達に時間的なずれが生じるということである。
ヘジュンと観客は、ソレが発する中国語が何を意味しているか、その瞬間には理解することができない。自動翻訳ソフトによって読み上げられてようやく意味が伝達されるのだ。同様に、ソレが独り言のように吹き込んだ声を、ヘジュンは後から文字として理解する。そして録音したヘジュンの声を繰り返し聴き返すソレの行為によって、観客はその声が何を意味するのかに気づいていく。
メロドラマにおける基本的な要素は「すれ違い」であるが、すれ違いを生み出すのは様々な「ずれ」である。本作ではコミュニケーションによって発生した、通訳や翻訳によるずれ(遅延)が、登場人物のみならず観客をも巻き込みながら、物語におけるメロドラマ的すれ違いに発展していくことになる。
ステレオタイプを避け提示される複雑なアイデンティティ
本作における言語とコミュニケーションの前景化は、一義的にはそこで起こる「ずれ」がヘジュンとソレのすれ違いというメロドラマ的な効果に繋がるわけだが、一方でそれぞれのアイデンティティとも結びついて複雑な様相を呈する点も指摘しておきたい。
ソレは「中国から密航してきた」女性であることに加えて、劇中ではもうひとつ彼女の出自が語られる。そこから導き出せるのは、彼女が「中国朝鮮族」である可能性である。
朝鮮半島にルーツをもちながら、19世紀後半から20世紀はじめにかけて中国へ流入し、長い年月を経て韓国との再会を果たしている朝鮮族は、多くの映画の中で「北朝鮮訛りの悪者」とステレオタイプ化されて描かれてきた。その社会的問題点は機会がある度に取り上げてきたが、たとえ朝鮮半島の北側からの流入者が多かったとしても、実際には各人のルーツは半島各地に及び、よってその方言も様々である。
本作でソレは韓国に来るまでは中国語しか話せなかったし、もう一人の中韓2か国語を操る人物は、流暢なプサン方言を話す。
ソレにしろ、もう一人の人物にしろ、映画の中でそのアイデンティティは断定されず、あくまで朝鮮族という可能性を仄めかすに過ぎない。だがいずれにしても、安易にステレオタイプ化された表現を回避しつつ言語的多様な状況を作り出し、かつ、彼らの過酷な背景に説得力をもたせる脚本は見事である。
愛ある結婚は望めず、夫婦間のヒエラルキーに屈しながら、毎日異なる老人の介護に精を出すソレという女性は、謎と同時に諦めにも似た悲しさを併せ持つがゆえに不確かな魅力をたたえている。ソレがヘジュンの「品」に惹かれるのは、彼女が韓国で社会的に弱い立場を甘受せざるを得なかったことの裏返しとも言えるだろう。
「愛」というルビがふられたような登場人物たちの言葉と行動
このように、あえて曖昧な描き方にとどめることで、観客の政治的想像力まで働かせてしまうパク・チャヌクの手腕は、彼が主宰する製作会社「モホ(=模糊)フィルム」の由来とも関係があるのだろうか。
先に、本作は「ジャンル(刑事もの)をもってジャンル(メロドラマ)を語って」いる点に、パク・チャヌク監督の進化が窺えると述べた。
刑事ものとはつまり、ミステリー(謎)があることを意味している。映画の始まりにおいて、その謎とは確かに「ソレが夫を殺したのか」というものだった。ヘジュンはソレを疑い、張り込みという形で彼女に一方的な眼差しを送り続け、並行して複数の事件を捜査し、犯人と対峙もする。
映画は明確に「刑事もの」というジャンル的枠組みを見せている。だが、いつしかその謎は、「ヘジュンとソレは互いの愛をいかに知るか」に代わっている。
ヘジュンからソレに向けられていた眼差しは逆転し、「愛している」と言わずにいかに愛を伝えるか、映画はいつしか完全なメロドラマへと変化を遂げるのである。
ここで私が思い出したのは、日本語に特有な「ルビ」という言語的作用であった。
日本語の極めて詩的で、かつとても便利なこの機能の面白さは、ルビをふることでいかようにも読ませてしまえることにあると思う。究極的には「憎悪」と書いて「あい(愛)」と読むことも可能なこのルビ文化を参照すると、本作に登場するいくつもの言葉や行動に「愛」というルビがあてはまるように思えてくる。
そして、メロドラマが私たちを惹きつけてやまないもうひとつの要素、「取り戻せない/遅すぎたという感情」が、本作では果たしてどう表現されるかは注目しておきたいところだ。
観客は、「間に合わないかもしれない」とハラハラドキドキし、間に合えばメロドラマはハッピーエンドに終わる。遅すぎたのであれば、主人公に荒波のように押し寄せる後悔と悲しみを、観客もまたスクリーンの向こうから呆然と見つめることになる。
「あなたの未解決事件になりたい」とヘジュンに語ったソレは、最後に何を選ぶのか。是非、劇場のスクリーンで見てほしい映画である。