小泉悠さんにとって、夏は一つの思い出がよみがえる季節だ。
毎日のように通っていた図書館のある市民センターの2階で、母親が有志と原爆展を開くのだ。
両親は、二人とも反核・反戦運動に熱心だった。母親らが主催していた夏の原爆展では、小泉さんも投下直後の悲惨な写真を毎年見ていた。
『風が吹くとき』『トビウオのぼうやはびょうきです』……。当時読んだ原爆をテーマにした児童書の題名は、いまでもいくつもそらんじられるほど。その恐ろしさは、深く脳裏に刻まれた。
母親らが原爆展をしている階下の図書館で、息子は軍事本も、読みあさっていた。自衛隊員と遊んでいることも、親は快く思わなかった。
「両親とはさんざんもめました」
だが、両親との確執は、独特のバランス感覚とさまざまな素養を養うことにもなった。
意見の異なる相手にどう耳を傾け、どうしたら納得してもらえるのか。自分のやっていることを両親に説明しようと必死で考えるうちに、相手の知識や関心に目線を合わせつつ説得力をもって話す力が、自然と鍛えられていったのだろう。
「いまも日本の安全保障について考える時には、まず両親の顔が浮かぶ。あの人たちをどう説得すればいいだろうかと、考えるわけです」
議論のための批判や反論をする人を「悪魔の代弁人」という。小泉さんは「僕にとっての『悪魔の代弁人』は両親だった」と振り返る。
原爆展で見た核の恐ろしさと、あこがれの軍事の世界。いくつもの複雑な価値観を何とか同居させながら、やがて早稲田大学に進学した。
入学して間もなく、学内でサークルに勧誘された。
声をかけたのは、当時3年生の山形大介さんだった。飛行機の愛好者でつくるサークルで、飛行機や軍事関係の話題が好きな人たちが集まっていた。
山形さんは、「その中でも、ロシアの軍事といえば小泉、というくらい詳しかった」と振り返る。印象的だったのは、軍事だけでなく、文化や社会への知的好奇心がとても強かったことだ。
小泉さんの自宅の本棚には、「文体に感銘を受けた」という長野まゆみ、「めちゃくちゃ好きだった」という澁澤龍彦のほか、吉田修一、村上春樹から佐藤大輔まで、SFからノンフィクション、評論、小説と、ジャンルを問わずさまざまな本が並んでいる。現実逃避のためだった読書体験は、小泉さんの幅広い知識や考える力を作り上げてきたのかもしれない。山形さんには当時、「本を乱読している」と話していたという。
飛行機サークルは十数人ほどの小さなものだったが、気の合う仲間に会える場所だった。みなで基地の一般公開に行ったり、一緒にお酒を飲んだり。大学の中での居場所になった。
このサークルの仲間とはその後も長く交友が続き、山形さんとはいまも家族ぐるみのつきあいがある。
山形さんは、当時から小泉さんはほとんど変わっていないと話す。
「相手の肩書とか所属で人を見ない。だから、物怖じしないんです。人の懐に飛び込むのがうまかった」
一方で、学業のほうは、安全保障を学ぼうとしたがぴったりのゼミがなく、入ったのは平和学のゼミだった。卒業の時期を迎えても、その後どうするのか、展望はほとんどなかった。
「身近にサラリーマンがいないから、会社って何をしているところかもわからなかった。職業的な想像が働かなかった」
たしかに、小泉さんの親類を見渡すと、教員だった父親以外、サラリーマン生活をしている人はほとんどいない。一度は勤めても、フリーになる人が多く、母方の兄弟はみな児童文学の世界にいた。
「親戚はかなりアナーキーな人たちで、最悪、死ななけりゃいいという、謎の安定感があった」と笑う。一緒に育った妹は、ホルン奏者になっている。こうした環境のせいか、幼い頃から大企業に入ってサラリーマンになるといった道は考えられず、家族から勧められることもなかった。
結局、そのまま早稲田大学大学院の修士課程に進むことにした。ところが、軍事のディテールから大きな絵を描くのが好きな小泉さんにとって、国際関係論に必須の国際秩序論や法哲学などは興味の対象外だった。
好きなことには徹底的に没頭するが、興味がないとまったく入り込めないのは昔からだ。すっかり勉強に興味がなくなり、酒ばかり飲み始めた。
何とか修士論文は書いたが、まったくまとまらない。指導教授からも「お前はなにをやっているんだ」と言われ、自分でもどうしていいのかわからぬまま、時間が過ぎていった。博士課程に進むかどうかという時期に、もう研究者の道はダメだ、と諦めざるを得なかった。
仕方なく就職活動を始めたが、受けた企業はことごとく不採用。気持ちがふさぎつつあったとき、ようやく電気機器メーカーで営業の仕事を得た。
X線装置の営業を任され、半導体関係の企業に検査機の売り込みを始めた。やってみると、仕事自体は面白かったが、「厳密に仕事を進めるプロジェクト遂行能力がなかった」。段取りが悪く、やるべきことを忘れてしまうのだ。上司から連日のように叱責され、とうとう耐えられなくなって1年で辞めた。
「僕は何をやってもだめ。できることはもう何も残っていない」。絶望感だけが深まっていった。
一方で、無職になって初めて気付いたこともある。軍事雑誌のために何かを調べて書くという作業は楽しく、いくらでもやれた。「もの書きは天職だ」と気付いたが、これで食べていけるとも思えなかった。
数カ月、実家でごろごろしているうちに貯金も尽きてきた。
そこで始めたのが、国立国会図書館でのコピー受付のアルバイトだ。著作権上の問題などがないかをチェックし、利用者に頼まれた部分をコピーする仕事だ。
小泉さんにとって唯一の接客業の体験だ。「これが面白かった」という。
次々とやってくる人を相手にしていると、世の中にはいろんな人がいるのだと知った。バイト仲間にはその後、研究者となった大学院生もいた。彼らとアカデミックな会話をするのも楽しく、一度は離れた研究者の世界の空気を味わうような気持ちにもなった。
そんなある日、実家に1本の電話がかかってきた。
この電話が、小泉さんのその後の道を変えていく。(つづく)